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【連載小説①】1979年初夏、ドーの話。/ DOE DEER, WHAT’S THE MATTER??

【ベッドルーム・シンドローム 2:ドー】

前作は「【台本】ベッドルーム・シンドローム」

作: 結友
イラスト: 橙怠惰

1. 二日酔い

頭の右側が「ゴツン」とガラスに当たった。ドー・ディアーはダンベルのように重いまぶたを持ち上げ、目をぱちくりさせた。

さてさて、自分の体がちゃんとあることを確認しよう・・・髪の毛、首すじ、汗をかいた手のひら、シャツ、ジャケット。
感覚ってのは遅れてくるもんだろ。右手に目を落とし、グーで固まった指をゆっくりと開いていくと、ようやく体がうまく動かせるようになってきた。ドーはホッとした。鼻先がガラスに触れ、冷たさがくすぐったく身体を通り抜ける。ドンという音が響き、体が揺れた。重い頭をガラスから起こしたところで、ついに結論を出した。

そうか、ここは、バスの中なんだな。

自分がどうやって乗ったのか、どこへ向かっているかも分からない。お金も持っていないかもしれない。ドーは「それでもいっか。」と自分の中でつぶやいて、まばたきをしながら肩をすくめた。バスには乗客がいなかった。おどけた顔を見せる相手がいないのに、それでも自動的におちゃらけてしまう自分が、おかしくもみじめだった。

バスが角を曲がり、ドーはもう一度窓ガラスに頭をもたれさせた。バスの揺れが心地よく身体に響く。小さいころ、家族の運転する車に押し込まれて、訳もわからず揺られていたことがあったっけ。あのぼんやりした心地よさが数十年ぶりに戻ってきたようだった。この記憶は思い出なのか、どっかの昼ドラの回想シーンから借りてきたパチもんなのかは全くわからないけれど。

それにしても、やけに静かだった。ドーはぼんやりと窓の外を見て、何かがおかしい気がした。いつものハリウッドだって、ただの人工物だ。しかしこの殺伐としたロサンゼルスの景色には、また別の「つくりもの」の感覚があった。ドー自身にとってより身近で、心地良すぎる「つくりもの」。つまり、あまりにも「自分」すぎる場所だったのだ。ここはロスであって、ロスではないのかもしれない。ドーは違和感を探るように直感をキリキリと働かせると、だんだんと退屈になってきたので、目を閉じることにした。

10秒後、ドオンとくぐもったの爆発音が脳髄をゆらした。外の景色が砂ぼこりで徐々に見えなくなり、ドーは煙たさに咳き込んだ。しかしバスは止まることはなかった。何も気にすることないよとでもいうように、同じペースで走行し続けていく。遠くから一人、二人と、悲鳴が聞こえてきた。すべてが混ざって、区別のない轟音に変わった。もう一度バスが角を曲がると、煙が途切れて外が見えた。
 ドーは外をじっと見つめていた。目の前で燃え尽きかけ、転がっているのは、まぎれもない死体だった。傍ではビルから次々と派手に出火し、映画のような連続の銃声が鳴り響いている。コカ・コーラの看板が、火花とけたたましい音を立てながら落ちた。兵士が何やら叫びながらやってくる。列を作り、かけ声と同時に見えない敵に攻撃を浴びせている。
 ドーは次々に上がる炎を見て、なんとなく愉快な気持ちになっていた。
「おもちゃの兵隊め。その辺で踊ってろ。」心のなかでつぶやいた。

周囲はパニック以外のなにものでもなかった。砂埃と炎、叫び声と銃声だ。

バスの速度が速くなるのと対照的に、ドーはふたたび眠くなった。窓に頭をもたれかけ、寝る前の6歳の子どもみたいに微笑む。やっぱり辺りが騒がしい時が、いちばん落ち着くんだ。外は混沌、栄光の世紀末。いいね、いいね。でもそろそろ、終わる。終わりたいなら終われよ。

もう一度バスが角を曲がると、一人の男の影が見えた。背が高く、シワの入ったスーツを着て、真っ直ぐ立っている影だ。
ドーにはそれが何なのか、何を意味するのか、いやでもわかっていた。

そうだよね、そうくるよな。でも、いいんだ。
もうちょっと寝させてくれよ。次のバス停まででいいからさ……。

バスが男にぶつかった。
暗転。カットアウト。

世界が終わるような衝撃と機械音と共に、すべてが終わった。


酸素吸入器から思いっきり、一生分の息を吸いながら、ドーは覚醒した。

極限まで息を吸ったら、空気以外のものを一緒に吐きだしそうになった。
ひどい気分だった。二日酔いと、まだいろんなものが抜けていない詰まったような感じ。体そのものが異物みたいな感覚だった。ドーは吸入器を外し、ふらつきながら立ち上がった。猫背矯正の伸びをして、腰の関節をゴキゴキと鳴らす。あくびをしようとしたが、うまく息が吸えなかった。悪態をつきながら顔をぐしゃぐしゃにして、しばらく苦痛に耐える。鈍器で殴られたような現実感だった。

うん。これが人生だ。おはよう。

2. バイト先には戻れない

ぼやけた頭をスッキリさせるには、壁に頭を一回打ってみるか、冷たい水で顔を洗うかのどちらかだ。ドーはどちらも嫌だったので、ポケットからたばこを出して火をつけた。何度か息を吸って吐いてを繰り返し、自分が今まで寝ていた場所を凝視した。ちっぽけで埃だらけのベッド、何も入っていない棚、灰色の床。ようやく自分のいる場所がわかった。

そうか、ここは病院の中か。

ドーはここが留置所じゃなくて心底ホッとしていた。今尋問されたって、何も覚えてませんとしか言いようがなく、明らかに警官が優しくしてくれる可能性がなさそうだったからだ。昨日の記憶が吹っ飛んでいるとはいえ、とりあえず自分がこれからやるべきことはわかっていた。ドーは床に落ちていた白衣をもちあげてほこりを払うと、サッと羽織った。白衣の肩の部分を見てみると、小綺麗な青色の筆記体でこう書いてあった。

Dr. M. ダグラス チルドレンズ・ホスピタル・ロサンゼルス

ごめんよ、ダグラスさん。ちょっと借りるぜ。ドーは当直室を出て、ロッカールームへ歩いて行った。

ぶらぶらとあてもなく廊下を歩いた。歩きながら、最悪の気分を紛らわそうと無駄に考えを巡らせた。自分専用の白衣があって、そこに自分の名前がついているのって、どんな気分なんだろうなあ。病院をはしごする俺のような奴には、名札は支給されず、肩に可愛い刺繍なんてしてもらえないんだよ。白衣をあんなにぐちゃぐちゃに放っぽり出しておくなんて、ダグラスさんは自らの幸せなポジションを分かってないらしいな。ドーはわざとらしく、羨ましそうにため息をついた。

しばらく周りをうろうろした後、「ロッカー室」と書かれた部屋を見つけたので、入ってみることにした。頭を掻き、あくびをしながら中に入ると、ほこりっぽい灰色の部屋が目の前に広がった。部屋には先客が一人、看護師の女がロッカー前のベンチに腰かけていた。金髪で、真っ赤なリップをつけて、不機嫌そうにガムを噛みながらこっちを見ている。

「ごめん、間違えた」ドーは部屋を出ようとはしなかった。
そのかわり、看護師の目をしっかりと見て、ニコッと微笑んでみせた。「気まずさから逃げるべからず」。人脈づくりにおける、ドーの大切なモットーだった。しかし彼女はいかにも迷惑そうに眉をひそめてドーを一瞥し、腑に落ちたようにああ、と言った。そして横の鏡に目を移し、帽子を直しはじめた。

「あんたさ、あれでしょ?バイトさん」
彼女はポケットから黒いピンを取り出して口にくわえた。ドーは大正解とでも言わんばかりに、肩をすくめた。看護師はまた、鏡越しにドーをにらみつけた。
「何日目?」
「初日だと思う…多分ね」
ドーは生あくびをしながら言った。
看護師はピンを挟んだ口からとり、帽子のふちに差し込むと、またガムを噛み始めた。
「多分?あっそー」
看護師は自分を指差した。
「3日目」
看護師は帽子をつけ終え、ドーの方を向いた。
「あーそうか、どうりで貫禄があるんだな。君は何科?」
ドーが尋ねると、看護師は冗談でしょと言わんばかりに鼻で笑った。
「ここ、チルドレンズ・ホスピタルって名前なんですけど」
「あ…そっか、うん、知ってたよ、そりゃそうだよなあ」

ドーは、「ほんの3分前まで自分はぶっ倒れていました」という事実をできるだけ表に出さないように気をつけていた。しかし胃袋を今すぐ取り出して中を洗ってやりたいような気持ち悪さのせいで、まともに会話を続けられなかった。妙な小芝居は逆効果だろう。ドーはとりあえず黙り、弱々しく微笑んだ。看護師が用意を終え、ベンチから立ち上がった。ドーがニコニコしたままドアに手をかけて突っ立っていると、看護師はドーに勢いよく近づいた。
「ほら、『多分』初日のバイトさん、正しい場所に案内したげる」

看護師とドーはロッカールームを出た。廊下は薄暗く、汚れが残ったままでワックスが塗り重ねられている。歴史を感じる無機質なクリーム色の床と、ブリーチしたての白い壁が永遠に続いていた。二人はしばらく横並びで歩き、看護師が口を開いた。

「ねえ、あんた名前は?」

ドーはその時、色々と限界に達していた。自分の名前を答えようと口を開けたとたん、目を見開き、廊下の端に走り込むと、床に思いっきり嘔吐した。

看護師はドン引きして、しばらく憐れむような目でドーを見つめた。
「…いいや、別に教えてくれなくて結構です」
すぐに表情を切り替え、再びスタスタと歩き始めた。ドーは咳き込み、よろよろしながら後へ続いた。
吐いて少しスッキリすると、頭の中に余裕ができてしまった。今度はさっき観た夢のイメージが一気に頭に入り込んできた。重い瞬きのせいで、暗くなるたびに目の奥から飛び跳ねてくる。
燃えるビル、しわくちゃのスーツ、踏まれた新聞、薬草、クリスマス・ツリー。

「そろそろ終わるんだ。何が終わるかって?」

ドロドロとした赤い炎のイメージとともに、夢の中の声が低音でこだましていた。耳鳴りもひどい。これなら吐き気のほうが数千倍マシだと思った。ドーは直立不動で、出来るだけ目を閉じないように、一点を見つめて集中した。

「…おーい、おーい。大丈夫ですかぁ」
遠くから声が聞こえたと思ったら、看護師がゴミを見るような目でこっちを見ていた。無理はない。側からみればドーは急に吐いた後、宇宙猫みたいにしばらく止まってボケっとしていたのだから、看護師の反応も無理はない。ドーはハッと我にかえり、看護師を見つめてニマッと笑った。
看護師は意味がわからないものをネタとして受け入れようとするかのように、鼻でフンッと笑った。
「ずっと思ってたけどさ、医者が必要なのはあんたなんじゃないの?」
「へ?」
「今のあんた、医者から金騙し取るヤクの売人みたいな顔してる」
ドーはキョトンとし、何度か瞬きをした。看護師の、あざけりと恐怖と好奇心が混じった顔がとてつもなく滑稽に見えてきた。
「ははは、やべぇ、君は面白いジョークを言うね。皮肉と言ったほうがいいのかな。そうやって新人いびりという名の歓迎を他のやつにもやって回っているのか?」
「え、ちょまって、めっちゃ急に喋るじゃん。無口なタイプだと思ってたのに」
「体調が悪い時は誰だって黙るだろ。吐けば誰だってスッキリして本来の自分に戻る。君はほんとうに看護師なのかい?」
「え、だから何!その気取った大袈裟な喋り方、それふざけてやってんの?」
「本作は79年のカリフォルニアが舞台なんだぜ!!?」
ドーの叫び声が廊下に響き渡った。

「…は!?」
2人はケンカ寸前の猫のように固まった。ドーは瞳孔をかっ開き、看護師も負けじと見つめ返す。

廊下の奥からキュッキュッと足音が聞こえてきた。2人は音のする方へ反射的に顔を向けた。角からカルテを持った、顔の丸い初老の男が堂々と歩いてきた。ドーと看護師はカジュアルにすれ違おうと、よそよそしくも顔を背け、静かに歩き始めた。
男がカルテから顔を上げた。ドーたちに気がついた途端、ポカンとした無害そうな顔がみるみる赤くなっていった。男の息が荒くなる。男は震える手でドーを指差した。

「お前…お前…!!」

後ろを向いて、誰もいないことを確認してから、ドーも一緒に自分を指差した。

「moi (俺)?」
わざとフランス語でちいさくつぶやく。

看護師はドン引きどころじゃない表情をドーと男へ向かって、交互に披露していた。

「よくも、のうのうと…戻ってこれたな…ああ?」
男はカルテを放り投げた。乾いた落下音が響いた。男はじりじりと近づいてくる。
「あのすいません誰ですか」
ドーは早口で男から遠ざかった。
「お前を…殺す…」
「なんなの?あんた何したの?」
小声で看護師が叫んだ。
「わかんねえよ!」
ドーはしばらく看護師の手をとって逃げるか、男と話してみるか、考えを巡らせていた。
考えようとすると、つい重めに瞬きをしてしまうのが難点だった。ビル、スーツ、新聞、薬草、クリスマス・ツリー。目を閉じれば炎に追われ、目を開ければ鋭い殺意を持った男がこっちに来る。…人生の一大イベントじゃん。何かが起こる時って、ほんと、重なるよな。とドーはしみじみ思った。最悪の日は、最高の状態で迎えてやらねば。ドーは深呼吸をし、ウォーミングアップ中の陸上選手のように、頭と手をぶらぶら振って小さく飛び跳ねた。
「あのさ、おっさん。ちょっと聞いて欲しいんですけど」
「俺の人生をめちゃくちゃにしよって…」
「もしかしたら人違いじゃない可能性を無きにしても」
「あの後どれだけ俺が…くっ…苦しんだか…!」
「…ひとりの人間がひとりの人生をそんなにめちゃくちゃに出来るかなぁ、なんて」
「神がお前に導いてくださったんだな…」
「俺のダチも恋人にメチャクチャにされたことあるんですけどさ…あ、けっこう最近の話ね」
「…お前を呪うために!」
男はドーの胸ぐらを掴んだ。男は一瞬、ドーの白衣についた肩の刺繍に目を向けた。この人は俺の名前を知りたいだけのかもしれない。という考えがよぎった。
「あ、ダグラスです、どうも」
この一言が最悪の選択だった。
男はさらに顔を赤くして、言葉にならない雄叫びをあげた。男の声が廊下中にこだました。
看護師は目を見開き、ひたすら落ち着きなくガムを噛んで一部始終を見守っている。
「こちらこそよろしくね…そんで…おっさんのお名前は…と…」
ドーは胸ぐらを掴まれたまま、顔を男の胸ポケットへ向けた。
胸には「Dr. ダグラス チルドレンズ・ホスピタル・ロサンゼルス 院長」と名札がついていた。ドーは男の充血した目を見つめ、じんわりと「やばい状況」を受け入れる体勢に切り替えた。

「あー…あなただったか!ははは」
男はさらに言葉にならない雄叫びをあげると、ドーの顔面に思いっきりグーで殴りつけた。鈍い音が響く。看護師がハッと息を飲んだ。勢いでドーは床に投げ出されて転がった。鼻血が噴き出し、口の中が血の味でいっぱいになった。血だらけの歯を見せながら、ゲホゲホと咳き込んだ。ダグラス院長は獲物を狙う肉食獣のように向かってくる。
「院長…?俺が何したかだけ…教えてくれませんかね…うゴッ」
院長は何も言わず、転がっているドーの腹に一発蹴りを入れた。
「殺してやる…!」
そしてもう一発。ドーは白目をむきながら咳き込み、身体をよじらせた。ドーは自分の意識が飛ばないように、なんとか持ち堪えようとした。

そのとき、後ろから物音がした。ドアの音が遠くで響き、子供たちの声がうっすらと聞こえてきた。院長はその場で動きを止め、ドーをじっと見たまま、鼻息を漏らした。ドーはよろよろと体を動かして後ずさった。廊下の角から1人、5歳くらいの男の子がとぼとぼ歩いてきた。院長は肩で深呼吸をすると、後ろを振り返り、不自然なスピードで子ども用シロップのCMみたいなスマイルへ切り替えた。
「ジョナサン~おはよう~!…気分はどうだい?ん?いやあ、君。ここにいてはダメだろう!ハッハッハ」

看護師は必死にドーへ目配せし、「今だよ、逃げな!」と手でジェスチャーした。
ドーはよろよろ立ち上がりながら、感謝の気持ちを込めて、看護師に弱々しく敬礼をしてみせた。そして来た道を引き返し、蹴られたお腹を庇いながら走り出した。
見つけたドアから外へ出て、100メートルほどよろよろと走った。轟々と生ぬるい風の音が、耳鳴りとともに耳の中まで響いてくる。まったく。逃げない選択をして得たものは、鼻血と、痛みと、どのみち逃げないといけない状況だけだったんじゃないか。分かってたなら、最初からとっとと逃げてりゃよかったよ。ドーは後悔を胸に、バス停の前で足を止めた。
膝に手を当て、肩でゼエゼエと息をした。顔の感覚がない場所をダグラスの白衣で拭くと、やはり血がべっとりと付いていた。ため息まじりの悪態をついて顔をあげると、生まれたてのロサンゼルスの太陽が鋭く突き刺さってきた。ドーは目を逸らすことなく目を細め、じっと上を睨みつけた。
鳥の甲高い鳴き声でふと我にかえり、ドーは「あ」とつぶやいた。衝撃の事実に気づいてしまったからだ。
自分が無職になってしまったということに。

また。

3. ただいま

ポケットをすべてひっくり返してみたが、1セントも入っていなかった。

バスを待つのは諦めることにしよう。ドーは白衣を脱ぎ、タオルのように顔と鼻の傷を押さえながら、よろよろと歩き出した。ぼやけた頭でも、ここがロスでいちばん大きな小児病院であることが分かった今、家へ帰る道はハッキリと分かっていた。ドーにとって、この街は小さな庭のようなものだった。
道中、歩行者の存在なんて毛程も気にしていないような車道に遭遇した。大きなトラックを避けるために茂みに足を突っ込み、お気に入りの靴がだめになってしまった。
「安らかに眠れよ、いとしいしと」
ドーは変わり果てた姿と匂いになったスニーカーにお別れをし、茂みに置き、左足だけ靴を履いたまま、再び歩き出した。
2時間ほど歩きつづけた。見慣れた近所の通りに近づくと、子供たちが庭で遊んでいる姿を見かけた。大人たちが出てきて、教会に連れていこうと子供たちに声をかけている。朝の散歩をしているおばあさんとすれ違い、軽蔑の目で上から下までじろじろと見られた。
今日は日曜日、時間は9:30過ぎってとこか。いつもの落ち着いた風景にドーは安らぎを覚えた。あとは家に帰ったら、シャワーを浴びて、熱いコーヒーを飲んで、これからの人生について考えるとしよう。そして必要であれば、不幸なダグラスを想って泣こう。あの変な夢の分析から逃れるためなら、なんだってする。そう思いながら玄関へと向かった。

ドーの家は、ミドルクラスの家庭が集まる団地の切れ目にあった。家族が暮らす一戸建てのすき間を埋めるような、みすぼらしくもちゃんと家の形をした、どちらかというと小屋のような家だった。ニューヨークへ引っ越したミュージシャンの知り合いから、安価で又貸ししてもらっている。ドーは植え込みのバケツの中からカギを取り出し、表の小さな階段を登ってドアへと向かった。

「…なんじゃこりゃ」
ドーは玄関の前に立ち、ドアをじっと見つめた。ドアが何枚もの木の板で乱暴に打ち付けてあったため、文字通りドーは家に入れなかった。。
ドーは眉をひそめ、握っていた白衣のポケットからまたタバコを取り出し、くわえて火をつけた。
「誰がやったんだよこんな真似…」
ドーはおそるおそる近づき、木の板に触れた。
近所の子どもたちのイタズラか?そもそも俺は昨日どうやって家から出たんだっけ?てか最後に家に帰ったのはいつだったんだ?一種の差し押さえか?俺の唯一の財産はアル・グリーンがくれた手書きの歌詞ノートくらいだぜ。べつに自慢したいわけではないけどさ。
木の板のはしには、ゆがんだ釘が何個も中途半端に刺さっていた。どうせどこかのバカな酔っ払いがやったに違いないが、とりあえず中に入るとするか。ドーが木の板を引き剥がそうと手をかけた瞬間だった。
ドンドンドンと鈍い音が響いた。
ドーは体中から血の気がひくのを感じた。目を見開いて、おそるおそる後退りをする。
一人暮らしの自分の家から…誰もいないはずの家から、物音がするなんて。この世でいちばん奇妙な状況だ。
もう一度ドンドン、と音が響き、ドーは反射的に後ずさった。
そして踵をかえし、階段を駆け下りた。ドーは来た道を引き返して一目散に走った。目指したのは友だちの家だった。

***
「なにがあったんだよ」
メガネをかけ、眠そうな目をしたコズモが、木の板だらけのドアを見つめながら言った。
「なんか心当たりは?」
ドーは首を振った。
「心当たりどころか、昨日何してたかも覚えてないんだよ、分かるかよ」
「だらしない奴だな、お前はほんとに」
「じゃお前は昨日何してたんだよ」
コズモは何も答えなかった。
「ほれみろ」
2人は並んで、目の下に同じようなクマをつけたまま、なすすべなくドアを見つめ続けた。またドンドンと音がして、2人は同時にびくっとした。
「警察?」
コズモがつぶやいた。ドーのほうを向いたが、逆光でほとんど何も見えなかった。
「昨日の記憶がないんだぜ、呼んだら真っ先に俺らが容疑者だろ」
「…口裏でもあわせて警察に怪しまれないようにするか…」
「おーけー、そうだな、困ったときは警察がいちばんだ…」

しかし2人はその場でドアを見つめたまま、まったく動こうとはしなかった。沈黙のまま時間だけが流れた。

「あーもう、しるかよ!」
ドーは木の板に足をかけ、バリバリと引き剥がしはじめた。
「この薄汚い!泥棒野郎に!お目にかかりてえな!」
ドーは力を入れるたびに、掛け声のように言葉を吐いた。コズモは端でじっと見ている。
「…それから?」
「は?」
「それから。ドア剥がして、それからどうするんだよ」
「それから、…平和的におれたちで解決する」
「平和的にね。平和はいい」
「このままいてもシャワーは浴びれないしな、やるぞ、シャワーのために命をかけよう」
「シャワーのために」
コズモが加勢し、2人は力の限り、木の板をバリバリと引っ剥がした。ドーは、板を引っ張るたびに声を上げつづけた。
「ロサンゼルスのホームレス人口は!」
バリバリ。
「年々上がってんだよな」
バリリ。
「くだらない政策なんか意味なくね!」
バリバリ。
「…かわいそうだよな。でもさぁ」
バリ。
「だからって俺の家でゆっくりしていいって理由にはならないんだよ!どうかシャワー浴びさせてくださいクソが!」
ドン。

木の板が全て剥がされ、ドアが開いた。
2人は目を見開き、これからやってくるであろう人生初のホームレスとの戦闘に備えた。しかし、何も起きなかった。
ドアの向こうにいたのは、白いワイシャツを着た男だった。玄関の前であぐらをかき、片手にコーヒーカップを持ち、しゃんと背筋を伸ばしてまっすぐドーたちを見つめている。
ドーとコズモはごくりと唾をのんだ。
そこにいたのは、シャワーを浴びにきた見知らぬホームレスなんかではなく、2人の友達だったからだ。ドーがお腹から思いっきり力をひねり出し、満面の笑みで叫んだ。
「よお!AJ!!」
ドーはそのまま気絶した。

***
「ほんっとうに、何も、覚えてないんだな?」
AJ・シモンズは背が高かった。
コズモとドーをソファに座らせると、自分は向かい側に立った。
キッチンカウンターに背中をもたれかけさせ、ゆっくりと二人を交互に見つめる。
弁護士という職業柄、いつも自分が腕を組んで質問する側で、逆はないんだよなとAJは思ったが、そのまま解答を待った。
「…うん」
「何も?」
「ウン」
「最後に覚えてるのは…?」
コズモは下を向いて目をキョロキョロさせ、ドーは上を向いて一点をぽかんと見つめていた。
2人とも「思い出す人」のポーズだけ取っているのは明らかだった。大事な脳内は空っぽのように思えたので、AJは心底イラッとした。
「もういいよ。とりあえずドー、お前はめちゃくちゃ痛そうだから一回退場しろ」
「へい」
「あと汚いし」
「ほい」
ゆっくり立ち上がりかけたドーを目で追いながら、コズモがつけ加えた。
「命懸けで勝ち取ったシャワー浴びてこい」
「ハレルヤ!」

ドーがひらひらと手を振り廊下の奥へと消えると、しばらくAJとコズモは静かに見つめ合っていた。
シャワーの音が聞こえてくると、AJはうなずき、こちらのほうを向いた。

「さて、主人公が一旦退場したところで」

コズモも怠そうにこちらを睨みつけ、くぐもった低い声で言った。
「『フラッシュバック』のお時間です」

続く。

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