【連載小説④】1979年初夏、ドーの話。/ DOE DEER, WHAT’S THE MATTER??
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作:結友
イラスト:橙怠惰
6. ゴースト
ドーは無表情のまま店の外へ出た。
口のなかで血の味がしてから、自分が力強く下唇を噛み続けていたことに気がついた。ドーは立ち止まって、車が行き交う目の前の道路を突っ切ることに決めた。なんでも突き飛ばしたい気分だった。
しかしこの街では、外へ出るとやわらかいものなんて一つも見当たらない。どこもかしこもでっかい鉄の塊ばかりだ。
何を蹴ったって自分の体のほうが吹っ飛ぶんじゃないかとドーは考えた。自暴自棄なのは分かっている。しかし、こんなことより危険なことをしてきた人間をたくさん知っていた。
ドーは立ち止まり、冷たくなった両手で頬をパチンと叩くと、堂々とした様子で4車線の道路を横切った。2回のクラクションと、3回の悪態と中指に遭遇したが、ドーは吹っ飛ばされなかった。
しばらく歩くと、クローバー・パークにたどり着いた。
小鳥が鳴き、カップルや子供連れのファミリーたちが遊んでいる。ドーは人気のない、鉄塔の近くにベンチを見つけると、そこに仰向けに横になり、空を見つめた。
昼下がりになり、威力をさらに増した太陽がドーを睨みつけた。ドーはかたく目を閉じた。ベンチに染み込んだ腐ったような匂いと、朝から消えることがない悪夢のヴィジョンが襲いかかってきた。
今度は仕方なく目を開け、必死になって眼球を焼き続けることにした。
しかしドーは、気づくと眠りに落ちていたようだった。意識が戻りパッと目を開けると、眩しさに思わじうめき声が漏れた。目がだんだんと見えるようになると、視界にぼんやりと人影が浮かんだ。ドーは目を細めてピントを合わせようとした。すると長髪の若い男が頭上で、ドーを嬉しそうに覗き込んでいた。
「どうっすか?」
はじめ、ドーは元気かどうか尋ねられているのかと思った。
「悪くはない」
青年は妙に興奮したように、身をよじらせて汚く笑い声を立てた。
「そんなに他人が元気で嬉しいんだ」
「そりゃ、もう。俺にもひとつ、お願いしゃす」
「は?」
「ほら、あの、LSD」
ドーはうんざりしてベンチから身を起こした。ソワソワと体を動かす青年は、汚い歯をむき出しにして笑っていた。こげ茶色の髪は異様に長く、ガタガタと切ってある。洗いすぎてクタクタになったバンドTシャツには、自分で数カ所穴を開けた跡があった。
ドーが一番イラついたのは、自分もかつて同じTシャツを持っていたことだ。一番思い出したくない時期の、昔の自分を見ているようで落ち着かない。ああ恥ずかしい。昔の俺ってこんなにダサかったんだ。
「あのさ、お前のその態度、あと服装…」
青年は右手を上げてピースサインを形成しはじめた。
「ああ、やめろ。お願いだからピースサインなんてするな」
青年はゆっくりと右手を下げた。
「お前さ、すんげえ1969年なの。わかる?時代を間違えてるぜ。80年代突入を目前にして、ヒッピーごっこにしがみつくんじゃない」
青年はぎこちなく立ちすくんだ。ドーが意外にも説教くさい、ただの酔っ払いだったことに気づくと、ガッカリとした様子でとぼとぼと歩いていった。
「成長しろよ」ドーは誰にも聞こえない声でつぶやいた。
青年が立っていた地面に目を落とすと、ぬかるみの部分に青年の足跡がくっきりと残っていた。足跡のくぼみを見つめていると、運悪く通りかかったアリの大群が、大量につぶされていた。
動かなくなった虫たちを見て、次第に自分自身が同じぬかるみに入り込んでいくように、頭が重たくなった。
心の中で声が響く。
「俺たちは、まだ踏まれてないアリみたいなもんなんだよ」
自分があの時、なぜ兄を訪ねたのか分からなかった。
母親から「あんたもヴィンセントの様子を見てきて」と何度も言われ続けたが、その度に断り続けていた。あの時、ドーは22歳だった。5年以上まともな会話をしていない兄弟に1人で会いに行けと言われて、スキップしながら行くような人間はいないだろう。
しかし妹がヴィンセントに会いに行くと電話してきたとき、嫌な予感がした。ドーは、反射的に自分が行くからその必要はないと伝えて電話を切り、サンフランシスコからコンプトンへのバスに乗ったのだった。得体の知れない兄の「今」を、妹より先に見ておきたかったのかもしれない。
ドーと妹のヴィヴは3つ離れていて、高校卒業後、演技を学びにニューヨーク大学へ進んだ。ヴィヴは小さい頃から母親を味方につけ、自分がやりたいことと家族がやらせたいこととを、等価交換するような関係を保っていた。そうして娘は大陸の反対側へと送り込まれた。ドーは等価交換をとうの昔に拗らせていたため、遠くの全寮制の学校へ送り込まれていた。
ヴィンセントは親に内緒で仕事を辞めたあと、誰も訪ねたがらない地域に安アパートを借り、そこへ自分自身を送り込んだのだ。この悪名高きコンプトン地区に。
バスを降りると、通りの様子が尋常じゃないことが明らかに感じられた。景色全体が夜だけを待っているような、貧乏ゆすりをしているような歪んだ空気でいっぱいだった。シャッターが閉まった店たちの前を、剥がれて踏まれてくしゃくしゃになった張り紙たちが通り過ぎていく。向かいの道路に人影が見えたが、目を合わせた瞬間にこっちに向かってきそうな不気味さがあった。ドーは背筋に一本、冷たい汗が通るのを感じた。
ドーはまっすぐ、早歩きで先を急いだ。
母親から預かったメモを握りしめ、ドーはくすんだ白い建物の前で足を止めた。インターホンのボタンは5部屋分あり、そのうちの一つには、「歯磨き粉とオレガノ支持者」とマジックで走り書きがあった。ここだ。ドーは唾を飲み込み、ボタンを押した。ブーとくぐもった機械音が鳴ると、兄ではない、別の男の声がした。
「誰?」
ドーは自分の名前を告げた。返事はない。しばらくして、男と兄が話しているのが雑音とともに小さく聞こえてきた。ブザーと共に、鉄格子のようなドアの鍵が外れる音がした。
ドーは取手を引っ張った。とても重いドアだった。
階段で4階まで上がる途中、妊婦とすれ違った。
妊婦は「ここには希望なんてない」と書かれた、伸びきったシャツを着ていた。すれ違うとき、頭の先からつま先までドーを舐めるように睨んでいった。ドーが反射したのは、彼女の人生のすべてだったような気がした。満たされない目、世の中から隠された目。ドーは学校では社交的で、パーティにもよく顔を出していた。近所の人の顔をたくさん見てきたが、ここまで生気のない目を見たことがなかった。ドーは頭が混沌としたまま、赤い擦り切れた絨毯の廊下を進んだ。
白いドアをノックすると、勢いよくドアが開いた。
背の高い、上半身裸の男だった。男は眉をひそめてドーを見ると、ドア枠にもたれかかった。部屋からは汗とゴミの匂いが漂ってきた。
「へえ。これが弟くんか」
ドーは何も答えなかった。男が目を細めて、ゆっくりと自分の両目を指差した。
「確かに似てるかも。まぶたがちょっと重そうなところとか。あとはこのへんか…」
「早く入れてやれよ」
奥から低い、唸るような声がした。ドーはこの声をよく知っていた。
ドアの男は肩をすくめた。
「ヴィニーは今アップな時期なの。ダメなときはベッドに横になるだけで誰にも反応してくれないんだけど、ちょうどいいタイミング。色々しゃべってくれるよ」
ドーはやはり、返事をしなかった。というより、できなかった。自分の頭がエラーを起こしていたからだ。今まで目を逸らしていた存在が、すぐ近くに迫っているのだ。自分の体がバラバラになってしまうような大きな力が、奥深くから湧き起こった。その力に対抗するためには、目の前の男を嫌悪することしか選べなかった。
ドーの敵意を感じ取った男は、やれやれと諦めたようにドア枠から体を離した。男が道を空けるように横へ動くと、ドーは部屋の中へ入った。
とても小さな、みすぼらしい部屋だった。アパートではなく、破格で泊まれるモーテルの一室のようだ。家具がほとんどなく、マットレスは直に置いてある。タバコの溜まった灰皿と多くの酒の瓶が周りをふちどり、服や小物がごちゃごちゃと置いてあった。薄汚れた壁紙はところどころ剥がれ、何箇所かナイフで大きく切り裂かれたような跡がある。食べ物も放置され、何匹かハエが集っているのが見えた。
ドーはドアの前で立ちすくんでいた。いつもの気の利いたことも、次にやれそうな行動も、まったく浮かばなかった。男はドーの足元にあったゴミを拾い、足で残りの小物を器用に押しのけ、道を作った。そして手前のみすぼらしいソファへと飛び込み、手のささくれをいじりはじめた。指先を見つめて、面白そうにふふふと笑う。彼はハイだ。
ヴィンセントは、奥のマットレスの上で横になっていた。ドーが近づいていくと、体をだるそうにゆっくりと起こした。
ドーはその光景から目が離せなかった。
もともと体格が良く、背が高かったヴィンセントだが、5年前に比べてかなり体重が落ちていた。白いシャツは体より大きかったし、目は大きく窪み、顔全体に暗い影を落としていた。ヴィンセントは重そうなまぶたをもちあげ、ドーと目が合うと、弱々しく微笑んだ。
「座れよ」
マットレスの横には、水垢のついた注射器とチューブ、銀色のボウルが転がっていた。ドーの胸騒ぎがとうとう抑えきれないほどになり、鼓動が早くなるのをじかに感じた。ドーは赤い絨毯の上にあぐらをかいて座った。
「お前、そんな顔だったっけ」
ヴィンセントが言った。とろんとした目でにっこりと笑う。
「兄さんもそんな顔だったっけ」ドーは正しい受け答えかどうかわからなかったので、口を閉じると小さく鼻をすすった。
「さあな。長いこと鏡なんか見てないからなぁ」
とても低く、ゆっくりとした声がふわふわと響いた。表情を変えずに続ける。
「…鏡なんか、持っていても一つもいいことなんかないよ。お前も捨ててみるのはどう?」
ドーは大きくて、思い出より縮んで小さくなった目の前の存在に吸い込まれそうになった。自分のリズムを取り戻そうとして、勝手に声だけが出る。
「薄っぺらい雑談は飛ばしたい。兄さん、一体何してんだ?」
「こっちだって薄っぺらい前置きはごめんだね。何の用だ?」
ヴィンセントはリズムを崩さなかった。奇妙なほど安定した、感情のない声だ。
「様子が聞きたかったんだ」
「5年も経っていまさらか?」
ドーは思考を巡らせた。記憶とかみ合わない。
「母さんは来てなかったのか?」
ヴィンセントは何も言わず、肩をすくめるだけだった。
「電話も?」
「ここって電話線どこなんだろ。あるかな?」
タイソンがないでしょと言い、首を振った。ヴィンセントはドーに視線をもどし、また横長の笑顔をみせた。
「家を出てから、お前が初めて話す『家族』のメンバーだよ。おめでとう」
ドーは愕然とした。母は、自分がヴィンセントの面倒を見ているから大丈夫と言っていた。嘘をついていたのか。実際は、家族の誰一人として兄を気にかけなかったんだ。
ドーも含めて。
「お前は責任を感じる必要はない。俺だって立派な大人だし、こうして自立してるし」
ヴィンセントは腕を力無く広げてみせた。
右腕は傷と、赤いあざでいっぱいだった。ドーは目をそらした。
「今日のご飯は私が作ったんだけど」
男がソファに横になったまま言った。
「黙れよ、タイソン」ヴィンセントが言った。
「疎遠の家族なんか、よくある話だよ。誰が誰の面倒を見るかは選べると思うね。そこにいるタイソンは、俺の面倒を見てるシュガー・ダディだ。お互いがお互いのシュガー・ダディなんだ」
ドーはタイソンの方へ振り返った。タイソンがヴィンセントに目配せし、ニヤリと笑った。二人の、内輪の冗談で笑うような、排他的な雰囲気がドーには耐えがたかった。ますます部屋が息苦しく感じたとき、兄が続けた。
「母さんは、お前が思ってるほど世話好きじゃなかったと思うけどな。まあそれは問題じゃないんだけど。問題はそれを隠して本性をひん曲げてるところだよね」
「少なくとも、いつでも帰ってきて欲しいとは言ってる」
「嘘だね」
「何でわかる?」
「あの『目』かな。最後に見たのがいつかは忘れたけど、あれは言わされてる目だよ。言わされてる目をもつ人間が言う綺麗な言葉は信じちゃあいけない。お兄様からのアドバイスだよ」
タイソンが口笛を吹いた。気怠そうにドーへ目線を送る。
「言ったでしょ。今日ヴィニーはよくしゃべるって」
ヴィンセントは体勢を整え、あぐらをかいて向き合った。ドーの目をまっすぐ見つめる。
「じゃあ聞くけど。お前はいま実家か?」
ドーは弱く首を振った。
「ほら。やっぱりあいつらは寂しいとかいいながら、子供達をどこかへ飛ばしたがる。今どこにいる?」
「サンフランシスコ」
「UCSFか。じきに医師免許を取るんだね」
ドーは小さくうなずいた。
「よかったな」
「兄さんは、仕事は」
「仕事はやってない。ビジネスならやってるんだけどね」
ドーはマットレスの注射器に目線を落とした。
兄はドーの悔しそうな表情に気がつくと、ゆるんだ口元をきゅっときつく結んだ。
鼻からゆっくりと息を吐く音がする。そして沈黙。
ドアの外から、くぐもった男の怒鳴り声が聞こえてきた。廊下をドタバタと走る音と同時に、床が揺れた。中華料理のテイクアウトの箱が振動でパタリと倒れると、ヴィンセントは床に目を落としたままつぶやいた。
「そっか。じゃあ俺は教訓になるのかな。こんなふうになるなよ、みたいな。だから会ってこいって親に言われたのか?英才教育の一環として」
「なんの話だよ」
「要するに、ほっといてくれってこと」
「こんなのおかしい」
「そうだな、この世のほとんどのものはおかしくなるか、おかしさを我慢できるものとして一生をまっとうするんだと思うよ。お前はどっちなんだろう」
ドーは何も言わず、下を向いて諦めの笑みを浮かべてから、もとに戻した。タイソンは正しい。こんなに話す兄を今まで見たことがなかった。何年も一緒に暮らしていたはずなのに、なにもわからない。わからないものは、とても気まずくて、どんどん大きくなっていく。怖くて仕方がなかった。
兄は答えを待つように、ドーを覗き込んだ。
「わからない」
口のなかがカラカラだった。
「本当に、なんで来たんだよ?」
わからないものは、どんどん大きくなる。
「わからないんだよ」
「勘違いしないでくれ。俺はお前がうまくいって嬉しいんだから。俺だって今、すっごく調子がいい。人生のボーナスタイムを楽しんでるんだ。ゴールを越えたランナーが、力を抜いて余力だけで進んでるみたいに。昔は成し遂げるまでは、なにも楽しまないって決めてた…これは親父のモットーだったね。だけど今は全く違う。何者にもならなかった楽しみを楽しみに生きてるよ。あ、そうだ。お前はアリを踏んだことがあるか?」
「え?」
「アリの大群を踏んじゃったことがあるか?…そりゃあるだろうな、みんなある」
兄は体を不自然に揺らしながら立ち上がると、なにかを探しながら床を見てまわった。
あ、と小さく声に出すと、しわくちゃになった焦茶色のスーツジャケットを拾ってはたき、羽織った。
「昔はさ、俺は何かを約束されていると思ってたんだ。親父が『お前は決められてる』って俺に言うたびに、俺はなんだか嬉しかった。自分は縛られてる。だけど、いつか行くべきところには行くんだろうなって。楽天的な縛りだよ。そんで、いまは、解放された。宙ぶらりんだ」
ズボンのゴミをはたき落とす。
「俺は、俺たちは、要するに踏まれていないだけのアリなんだよ。定められたことなんて実際ない、約束なんてない。あるのは、無作為な出来事ととその効果。勝手に点と点を繋げる人間と、偶然だけ。今この瞬間も、いつ踏まれるかなんて誰にも分からないんだから」
兄が行ったり来たりするのを目で追いながら、ドーはつぶやいた。
「意味わかんねえよ」
タイソンがそれを聞いて、声に出して笑った。兄は一緒になってゲラゲラ笑いながら続ける。
「逆だよ。踏まれるまで楽しく生きましょうよっていう新手のわかりやすいポジティブ・シンキングだ。タイソン、鍵は?」
ヴィンセントはジャケットのポケットをパタパタとたたいた。タイソンは横の台から鍵をとって投げた。
「どこ行くの?」
「電話してくる。脳内の考えを喋れるうちに、次の供給を確保しておく計画」
ヴィンセントはドーに向き直って言った。
「お金は?」
「え?」
「クォーター硬貨2枚持ってるか?」
ドーはなすすべなくポケットから小銭を取り出した。ヴィンセントはありがとうと言って受け取った。ドーは目から涙がこぼれ落ちないよう必死だった。
「てわけで。また返すから…帰りのバス代はあるのか?」
ドーは弱々しくうなずいた。
「完璧。じゃあ仕事を取りに行ってくる。元気で。」
ヴィンセントはおぼつかない足取りで急いで外へ出た。しばらくトントンと床がふるえてから、完全に静かになった。
残ったタイソンが気まずそうに口を開いた。
「ここの鍵もってないんだけど。うちに帰れないじゃん」
ドーは呆然と座ったまま、なにも答えなかった。
タイソンが言う。
「お茶でもいる?」
ドーはまた答えることなく、ゆっくりと壁のほうを指差した。
タイソンは訳がわからず、同じ方向を見つめると、ドーがぽつりと言った。
「電話だったら」
ドーは強く鼻をすする。
タイソンは目をまん丸くして壁を見つめつづけた。そこには壁掛け電話用の配線穴があった。
「あそこからつなげてあげたらいいよ」
ドーはきょとんとするタイソンを見上げて、ニンマリと笑ってみせた。そしてよろよろと立ち上がると、部屋を出てドアをバタンと閉めた。
ドーが外に出ると、大通りの向かいにスーツの男が歩いていくのが見えた。
ヴィンセントだった。
顔はうつむいていてよく見えなかったが、よれよれのジャケットを羽織った肩が小刻みに震えていたのは、ここからでもよく見えた。
*
ドーは公園で一人、ぬかるみに残されたアリの死骸を見つめ続けていた。
自分より先に、兄は人生の真理をみつけてしまったのかもしれない。
決められたこと、意味があると信じた出来事は、いつかバラバラに分かれて無作為な物質になって、ランダムに人を潰しにかかってくる。
ドーは急に、ひとりであることをひしひしと感じた。とてつもない暗闇に押しつぶされそうになった。息ができない。ひとりになると、自分がいなくなる気がした。どうせ全ては嘘っぱちで、何も残らないっていうのに、なんでみんなそんなに全力をつくすんだ?なんでみんな誰かと繋がって、うまくことを運んで、折り合いをつけてやっていけるんだ。
ドーは誰かに見られていない時、自分がなんなのか全くわからなかった。
だからこそ、消えてしまう気がしたのだ。
ドーはズボンのポケットに抗不安薬を入れていたのを思い出した。尻に手を伸ばしたが、そこには小さなゴミしか入っていなかった。おかしい。確かに今朝、着替えたときに入れたはずのに。
考えられるのはあの時だけだ。
「あのヒッピー野郎め」
ドーは肩を落として独りごちたあと、あーもう!とヒステリックに短く叫んだ。
少し遠くで遊んでいた家族がドーをにらんだ。
よかった。とりあえず自分はここにいるみたいだ。ドーは少し安心したように小さく手を振った。家族はジト目を向けたまま、ドーからできるだけ遠ざかっていった。
続く。
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