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「暗闇」「猫」 熱帯夜

作:沫雪

ゆらり。空気が揺れる。輪郭が、滲む。
「だから言ったじゃないか。嫌だ、と」
じめじめと肌にまとわりつくような湿気を孕んだ熱帯夜。街灯のあかりだけがやたらと眩しく辺りを照らしている。夜道の静寂を破り吐き出された声は酷く冷たいものだった。1滴の雫が、少女の頬を伝い地面に染みを作る。こぼれた水滴を拭いもせずに今しがた口にした言葉を反芻し、息を吐く。深く重いため息だった。


静まり返った部屋の中。外は既に夜の帳が降りていて、人の気配は感じられない。野良猫だろうか、しゃがれた鳴き声が闇に溶けて消えていった。
"急でごめん。これから会えないかな"
震える指でメッセージアプリに文字を打ち込み、送信する。寝苦しく汗ばむほどの気温だというのに身体は冷えきっていて、暑さのひとつも感じられない。言いようのない不安と恐怖が、ベッドの上で膝を抱えてうずくまっている少女の体を飲み込もうとしていた。なにかとんでもなく悪いことが起きるような予感、暗闇に1人取り残されるような孤独感。それに抗いたくて恋人である彼に連絡をしたのだが、一向に収まる気配はない。むしろ、より一層濃度を増して身体の内側から侵食してくるようだ。ぐるぐる、ぐちゃぐちゃ。まともに回らない頭は何度も同じ思考を繰り返す。
ピロン。その場にそぐわない電子音とともにスマートフォンが光り、彼女の意識を一気に現実に引き戻した。
"なにかあった?"
"とにかく今から行くから。家にいるよね?"
少女の心情を知ってか知らずか、普段は少しでも甘えようものなら珍しいだの嬉しいだのと騒ぎたてる彼からの返信も、どこか切迫して緊張感のあるように感じられる。
彼が来てくれる。この部屋で1人夜を明かさなくて済むことに安堵する反面、今度は別の恐怖が彼女を襲う。……彼に何かあったらどうしよう? __いや、まさか。こんな深夜に彼が起きている事は確かに珍しいが、別にそこまで気にするような事じゃない。夜中に出歩くような人ではないから、きっと彼も家にいたのだろう。彼の家から私の家まではだいたい15分、かかっても20分ちょっとの距離だ。その間に何かに巻き込まれる、なんて可能性は限りなく低いだろう。それでも、全く無いとは言いきれない。だからといって何が出来る訳でもないのだから、とにかく彼が来るまでここで待つしか無い。脳内会議でそう結論を出した少女はスマートフォンを握りしめ、再び膝に顔を埋めた。
…一体どれくらいの時が流れただろう。依然身体は冷えきったままで、カチカチと時を刻む秒針の音に嫌な予感は膨らむばかりだ。ロックを解除し、メッセージアプリを開いて履歴を確認する。
"今から行く"という言葉から早1時間が経過していた。いくらなんでも遅すぎる。どくどくと流れる心臓の音がやけに響いて聞こえた。メッセージを送る。 返事はない。胸騒ぎは強くなる。ぐるぐる、ぐちゃぐちゃ。いてもたってもいられず、感情に任せて夜道を走る。頭の奥底で警鐘が鳴り響く。ぐるぐる、ぐちゃぐちゃ。あと少し、もう少しで彼の家に着く。あの角を曲がればすぐそこだ。角を曲がり、飛び出した瞬間___ぐちゃり。何かが潰れる音がした。続いて叫び声とも取れない呻き声。どちらもあまりにも生々しい音だ。彼女の目に飛び込んできたのは、血みどろになった彼の姿と、なおもそれを踏み付けにしている異形の姿。_ああ、ヤツらだ。絶望にも似た感情が、少女を支配する。悪い予感は当たってしまった。アイツらが__「猫又」が、来てしまった。ピクリと耳を動かし、2つに別れた尻尾を揺らめかせてヤツは振り返る。
…あぁ、やっぱり。もう無理だ。どう頑張ったって、逃げ場はない_
「……何を、しているの。」
カラカラに乾いた口を無理やり動かして問う。分かりきってはいたが、問い詰めるよりほかなかった。もう一度、今度はハッキリと言葉を紡ぐ。「答えて。彼に__私の恋人に、何をしているの。」
「私たちの任務の遂行にあたり、障害になると判断致しましたので、処分させて頂きました。貴方様ならきっとお分かりいただけるかと。」
ヤツは平然と答えた。息が、詰まる。酸素が、足りない。分かる、わけが無い。酸欠になったように頭がガンガンして身体が言うことを聞かない。
ゲホゲホ、と見苦しい音を立てて彼の体が振動する。ヒュウヒュウと喉を鳴らしながら息をする彼をみて、弾かれたように身体が動いた。うっすらと目を開けた少年は真っ赤に染まった手で少女の頬に触れて言う。
「ごめん…ね、すぐ行くって、行ったのに、行けなかった、や…」
「やめてっ…喋らないで。お願い」
いつもなら少女からのお願いには弱い彼も、今回ばかりは引くつもりは無いらしい。彼女の言葉を無視して口を開く。
「君を…そこから、救い出してあげられなくて、ごめん。…ずっと、そばに居るって、約束、守れなくて、ごめん。」
ごぼごぼと口から鮮血を撒き散らした後、彼は笑って言った。清々しいほどに、憎たらしいほどに、綺麗な笑顔だった。
「でも、君には…君だけには、この世界で、幸せになって欲しい。例え、隣に並ぶのが…僕じゃ、なくても」
愛してるよ。
最後の言葉は、少女に聞こえただろうか。だんだんと温度が失われてゆく彼の腕を握ったまま、少女は唇を噛み締めた。
飛び散った彼の血は妙に生暖かくて、吐き気がするようだった。

ゆらり。空気が揺れる。輪郭が、滲む。
「だから言ったじゃないか。嫌だ、と。」
じめじめと肌にまとわりつくような湿気を孕んだ熱帯夜。蛍光灯の灯りだけがやたらと眩しく辺りを照らしている。夜道の静寂を破り吐き出された声は酷く冷たいものだった。
「もう、希望を持つのも。誰かを__君を、愛する事も。嫌だと、言ったじゃないか…っ」
1滴の雫が、少女の頬を伝い地面に染みを作る。こぼれた水滴を拭いもせずに今しがた口にした言葉を反芻し、息を吐く。重く、深い息を。
ゆらり。少女の周りの空間が歪む。輪郭が、滲む。  開かれた目に映ったのは、恭しく頭を下げる猫又の姿。
「…お待ちしておりました。"猫神様"」
揺らめく影が、満月に照らされて蠢く。角度を変え、ピクリと動く耳。ぎょろりと見開かれた、光を反射しギラギラと光る瞳。優雅に振られる度に空気を震わせる無数の尻尾。固く閉ざしていた唇を開き、少女は言う。
「___その呼び方、辞めてと言ったはずよ。」
ぶわりと風が舞い上がり、視界を奪う。再び静寂に包まれた夜道には、人の姿も、生き物の姿も見られない。
ただ、血塗れた一人の男の死体と生ぬるく湿った夜の空気、それら全てを飲み込まんとする闇がそこにあるだけだった。
少女の行方を知るものは、誰もいない。

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