~猪木に牙を剥いた男たち~ vol.3
リングに叫び、拳を突き上げたあの日。今もこの胸に燃えさかる熱き炎のファイターたちをイラストとエッセイで綴るプロレス讃歌!
~猪木に牙を剥いた男たち~ vol.3
全国のプロレスファンの皆様こんばんは。『週刊アイアンクロー』編集長のチャーシュー・タケです。今週は“不沈艦”スタン・ハンセンです。
●ハリケーンのようなラリアット! ~テキサスの暴れ牛はモーどうにも止まらない~
スタン・ハンセンの名を一躍世に知らしめた“事件”があります。
デビューから3年後の1976年(昭和51)4月、プロレスの“殿堂”と称されたニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにおいて、時のWWWFヘビー級王者であるブルーノ・サンマルチノの分厚い胸を借りるように対戦したハンセン。まだまだキャリアも浅く、不器用な中堅レスラーでした。しゃにむに王者に襲いかかり、得意技であるウエスタン・ラリアットで苦しめ、その流れで放ったボディスラムが悲劇を生んだのです。汗で滑ったのか、技そのものが未熟だったのかは定かではありませんが、あまりの急角度でのボディスラムにより、サンマルチノの首が悲鳴を上げ、重度の頸椎捻挫を負ってしまいます。こともあろうに相手はニューヨークの大スタア。この想定外の事態に、当のハンセンもさぞや凍り付いたことでしょう。ニュースは猛スピードで走り、やがてその伝聞には羽根が生え、いつしかウエスタン・ラリアットで「サンマルチノの首を折った男」として、瞬く間にハンセンの名前が世界を駆け巡りました。
新日本のマットに上がったのは、この事件の翌年の1977年(昭和52)です。
サンマルチノとの一件で、アメリカでの活動の場を失いつつあった為に、日本を主戦場とすることを決意したのです。外国人エースとして輝きを放つのに時間はかかりませんでした。やがて、猪木との名勝負は新日本プロレスの看板カードとなり、ファンの熱い支持を得たのです。ハンセンのレスリング・スタイルは、終始受け身にはならず、まるでブルドーザーの如く相手に圧力を掛け続けるものでした。元来、この様なスタイルをあまり得意としていなかった猪木は、ハンセンとの幾多の闘いを通じてその対処法を会得したのかもしれません。
後の「風車の理論」の源流がそこに見え隠れします。
対するハンセンも、猪木との攻防からレスリングの幅を広げ、見事なまでのメイン・イベンターへと登りつめたのでした。
このふたりの闘いの極めつけは、1980年(昭和55)のあの試合。
ハンセンのラリアットに散々苦しめられてきた猪木は、ロープに飛ばされてまたしても強烈な一撃を食らってしまうのか‼と思われた瞬間、起死回生のラリアットを逆にお見舞いするという「禁断のストーリーテラー」ぶりを発揮したのです。これぞ、猪木の魔性の魅力です。それもこれも、スタン・ハンセンという強烈無比な“重戦車”が居てこそ成立したと言えます。
猪木が放った“掟破りの逆ラリアット”の衝撃も忘れられませんが、ハンセンの私的生観戦史上ベスト1は、もうこれしかないでしょう。1981年(昭和56)9月23日の田園コロシアム、アンドレ・ザ・ジャイアントとの世紀の一戦。すり鉢状の会場の真ん中あたりから観ていましたが、超ド迫力の肉弾戦は、会場の大歓声、異様な熱気とともに、いつまでも脳内再生できます。そして、この試合のあとのメインのリング上で、「こんばんは事件」が起きました。歴史的な夜となりました。
◼️『プロレスダイアリー甦える鉄の爪』は毎週木曜日に更新します。