Vol.001 自己紹介
はじめまして!今日からnoteを立ち上げましたしも京香です。
ずっとnoteは気になりつつもできていなかったのですが、みなさまからのご意見を聞けたり自分の想いを伝える場所になれたらとはじめることにしました。
これまでもいろんなブログで発信してきましたが、このnoteではさらに素直に書き出していけたらいいなと思っています。
ただいま、2025年に本の出版に向けて執筆中でもあります!
このプロフィールでは、私の半世紀の人生をご紹介。
おそらく人生経験としては、犯罪以外のことはほとんど経験してきたんじゃないかと思うほど本当にいろんなことがありました。
お時間があるかたは、ぜひ、読んでやってください。笑
学生時代
封建的な家庭で育つ
京都・嵐山で育ち10歳の頃に祖父母と同居することになり、妹、弟、両親の5人家族から7人家族へ。
同居した家の隣や向かい、近所に父方の妹たち(私でいうと3叔母家族)が住んでいたので、週末になるとみんなでご飯をたべたり、しょっちゅう客人が滞在するというにぎやかな家庭で育ちました。
一方で、封建的な家庭でもあり、たとえば、父や祖父母が席に座るまでは、おはしを持てなかったり、高級食材のメニュー(松茸とかカニとか^^;)はこどもはメニューが違ってたり、学校から帰ったらまず祖父母の部屋にいって挨拶しなければいけなかったり…としつけも厳しくて、
父の口癖は「女らしくしなさい」「おしとやかにしなさい」
母の口癖は「公務員と結婚しなさい」「女は男に食べさせてもらうもの」「女は男の一歩後ろに下がって支えるのが幸せな生き方」
と言われ続けて育ったので、成人になるころにはすっかり、依存体質な京香になっていたのでした。苦笑
6年間熱中したクラブ活動では成果が出ず終了
叔父の勧めで小学校5年生の時にはじめたソフトボールに熱中し、中・高時代はひたすらクラブ活動に励んでいました。
中学生でソフトボール部に入部してからは、ピッチャーになりたくて毎朝4時半に起きて近所の公園で1人で練習してから朝練に行き、放課後はクラブ活動と毎日ソフトボール漬け。
年中、真っ黒でよく「モンチッチ」とからかわれた・・な。苦笑。
でもがんばったおかげで中学1年からメンバー入りができて、高校はスポーツ推薦で入り、高校卒業後は実業団へのお話もあるほどだったんです。
ただ、ソフトボールは団体競技なので、個人がどんなに頑張っても結果は別です。
6年間全精力を注ぎ込んだけれど、チームとして良い結果も出ず、悔しい思い出の方が多かったまま引退します。
この時に、「努力をしても報われるとは限らない」とつくづく思いました。
20代~30代
華やかなバブル時代を謳歌
学生時代からOL時代にかけては、時代はまだバブル期の終焉の頃で、花金、3高、メッシーくん、アッシーくんと(分かる人にはわかるよね。笑)毎日、遊んでおごってもらえる生活。
「女は男に養ってもらうもの」と教え込まれて育ったから、当時はいかに、イイ男を捕まえて早く結婚して専業主婦になれるれるか?ばかり考えていた気がします。爆
自分のキャリアを積むとか、1mmも考えたこともなかったです。苦笑
そして、その通りの男性を見つけて22歳で結婚し神戸の芦屋で結婚生活がスタートします。
1度目の結婚生活
22歳の私と25歳の彼で結婚した当時の家賃は、芦屋で30万円以上。週末になるとホテルオークラのフレンチで食べてワインを開けて、平日は、元町や三宮をぶらぶら買い物三昧。
絵にかいたようなバブリーな生活をしながら、心の底では「こんな生活が永遠に続くはずがない」ってずっと思っていました。仲は良かったのですが、旦那を見ながら、「この人と年を取っても一緒に生きているイメージがわかない」とも。
結果どうなったか…というと、
ビジネスパートナーに裏切られた旦那が、過呼吸→適応障害→うつになり、DVがはじまり、愛人問題、愛人の子ども発覚、事業失敗、投資失敗と、次から次へと悪夢が押し寄せてきて、気が付いたら騙されて離婚していました。
1回目の結婚生活は9年で、ジ・エンド。^^;
2度目の結婚
離婚したとき、自分は何も持っていないことに愕然としました。30代に入ろうとしてるのに、お金もキャリアも経験も何も持っていない自分。
それでもまだ、私は子供のころに教育された通りの「女は男に養ってもらうのが幸せ」なんだと信じていました。
だから、次、どう考えたのかというと、
「早く良い再婚相手を見つけて子供が欲しい。今度は、親の言う通り、高収入でなくても公務員のような安定した人と結婚しよう」と思ったんです。
(今、これ自分で書いてて笑っちゃう!(苦笑))
で、ほぼその通りの人と再婚。
34歳で出産してママになり、平凡だけどそれなりに幸せだと思っていました。
出産後に2世帯住居を建てて義両親と同居生活が始まったことで、子育ても楽だった私は、「時間があるなら働いてお金を稼ごう」と考え、近所の会社に再就職します。
36歳、会社員に戻れるラストチャンスだと決意
この30代の会社員時代も、依存体質の私が大いに発揮されます。爆
当時は、いかに残業なしで時間内に適当に仕事を終わらせお給料をもらえるかそればかり考えていました。
あいかわらず、「キャリアを磨こう」なんてこれっぽっちも考えていませんでしたね。
平日の朝9時から夕方5時までの私の時間の対価としてお給料がもらえるってマジで思ってました。
ほんま、ヤバいです。笑
働いていた職場は、家から車で数分、残業なし、ボーナスもちゃんとあって、人間関係も良好、年に1度はヨーロッパ旅行へ連れて行ってもらえるという夢のような会社だったので、私は定年までずっとここで働くのが最高の選択だと思っていました。
フリーランスの存在
会社では、昼間は1人になることも多く、空いている時間に見ていたインターネットで気になり始めたのが、当時、浸透しはじめたFACEBOOK。
世の中には、会社や組織に縛られないで自分の時間や収入を自由にコントロールする生き方をしているフリーランスという人たちがいることに気づきます。
文句のない会社員生活だったけれど、オフィスのガラス窓からいつも外を眺めながら、
「私って鳥かごの中の鳥みたい」と思っていた私にとっては、フリーランスの人たちはとっても羨ましかった。
「私も自由になりたい」
「出かけたいときにどこにでも好きにいけるようになりたい」
と思うようになりセミナーなどに出かけ、いろんな人と出会うことで、鳥かごの中からどうしても出たくなって退職を決意、念願のフリーランスになります。
依存体質のまま、フリーランスへ
自由を求めてフリーランスにはなったものの、そもそもキャリアとか起業、自立マインドとか全く持っていないものだから、チャレンジしても、モチベーションに左右されて上手くいかなかったり、たとえ上手くいっても長続きしなかったりを繰り返します。
「仕事は?」と聞かれて、都合のいいときは「フリーランスです」といい、都合が悪ければ「主婦です」というような、まったく覚悟がないまま、結局は時給で働きながらなんとか体裁を保つ日々が続きます。
アフィリエイト、個人輸出入、バイヤー、コミュニティ運営、ECサイトetc…、投資もたくさんしました。
でも、どれも大成しなくて、悶々とした毎日をなんとなく送っていたある時、胸のしこりに気が付きます。
放っておいたしこり
とにかく病院嫌いでいやなことは後回しにしがちな性格なので、「なんか右と左の胸に違いがある?」と感じてもすぐには病院に行こうとはしませんでした。
「大したことない」「気のせいだ」と、嫌なことに蓋をしてここでも向き合おうとしなかったんです。
でも、2019年の秋にしこりが急激に大きくなった気がして、さすがに「これはマズイ」と思いました。
年末でどこも予約でいっぱいの乳腺外科に1枠だけキャンセルで空いた12月27日の年内最終日に予約が取れてはじめて受診しました。
マンモグラフィーを撮って診察室に入って先生が撮影した胸の写真を見た瞬間、
「おそらくこれはガンやね」
といきなり衝撃のガン宣告。
人に裏切られたり、DV、愛人や愛人の子ども、事業破綻、借金問題、離婚、再婚…と、それまでも、ほんといろいろあったけど、命に直結しているガン宣告は、やはり人生の中で一番ショッキングでした。
「もしかして私は死ぬの?」
そう思ったから…。
8か月の闘病生活
先生から「しこりから出血してるから急に大きくなったように感じる。早めに手術した方がいい、すぐだけど正月明けの1月4日なら手術できるけどどうする?」と。
そしてお正月から入院して手術。
「手術してみないとリンパにまで飛んでるかはわからない、飛んでいれば抗がん剤治療などの長期治療が必要です」と言われました。結果、リンパに飛んでいて、抗がん剤と放射線治療決定。
長期間の化学療法が始まります。
恐怖の抗がん剤治療
このころの私の抗がん剤治療のイメージって、いつぞや?の百恵ちゃんのドラマのままで、「吐いて吐いて毎日苦しくてたまらない」だったり、「髪の毛をつかんだらごそっと抜けてしまい1~2年はかつら生活」だったんですね。
なので、これから見た目もどんどん変わっていくだろう自分に恐怖でいっぱいでした。
でも実際は全く違ったんです。(もちろん人や抗がん剤の種類などにもよって違うと思います)
私の場合は抗がん剤治療で「しんどい」「つらい」「吐き気」とか一度もなかった、あったのは眠気だけ。苦笑
なので、投与中はほとんどぐっすり寝ていましたね。
起きたら終わってるって感じでした。
髪の毛も徐々に抜けては行きましたが、通っていた病院が抜け毛予防にも取り組んでいたのでごそっとぬけてしまうようなことはなく、なんとか、かつらをつけずに終わることができました。
乳がんになった意味
手術が成功し、抗がん剤や放射線、ホルモン治療も全部やったから完治したのかというと、がんの場合は再発の心配がありますよね。
今は、10年間のホルモン治療をしながら経過観察を続けていきます。
私は今では、普段、再発の恐怖に怯えるとか心配することはほとんどありません。定期的に通う病院の診察室に入るとき「もし再発って言われたら…」とちらっと思うくらい。
そんなに気楽に考えられるのは、8か月の闘病生活の間ひたすら模索しつづけて考え抜いて見つけた私なりの「私が乳がんになった意味」の答えを見つけたからです。
病気になった意味
同じような経験をしたことがある人なら、私と同じような考えに行きつく人も多いと思います。
私は乳がんになってから、「なんで私は乳がんになってしまったのか?」をひたすら考えました。
「ガンの家系だから?」「ワインの飲みすぎ?」…もちろん、それもあるかもしれません。
それも含めて私が行きついた答え、それは「神様からの生き方が間違ってるよという修正のお知らせだった」と思っています。
本当は、もっとその前にいろんなお知らせがあったはず。でも、それを全部スルーして自分を大切せず、自分らしくない、人に依存する生き方をしつづけた。
結果、こんな大きな病気になるまで気が付けなかったんだと思っています。
逆に言えば、乳がんになったおかげで気づけたことがたくさんあり、それから、自分自身のことを見つめたり、今までの考え方をやめる必要があることに気づけるようになりました。
50代
生き方の修正
ただだからといって、ずっと根付いてしまっている常識や考え方や生き方から「はい、変わります!」といっても、そんなに簡単に変われるものではない…ですよね。苦笑
私の感覚としては、今、徐々にいろんなことに気づきながらライフシフトしている最中だと感じています。
いろんなことを頑張っても上手くいかなかったのは、他人軸の生き方だったり依存した考えだったり、物事に対しての向き合い方だったり、生きる覚悟だったりと間違っているものがたくさんありました。
また、自分自身を大事にせずちゃんと見てあげることなく生きてきた。
だから、起業しても長くも続かなかったんですよね。ここ最近ではそんなことを日々意識したり気づかせてもらいながら自分の変化を実感できるようになってきました。^^
これからの生き方
「自分らしく生きよう!」とあちことで言われるようになってきました。でも「自分らしいってなに?」と言われる人も多いです。
私も「自分らしいって何なんだろう?」とずっと思ってきました。
「頑張らなくていいよ」と言われれば、「じゃあ好きなことしよう」とダラダラして過ごしてみたり、「ストレスはだめ」と思えば、自分に合う人とだけ付き合ったりして、確かに毎日穏やかに暮らせるようになりました。イライラもしなくなったし、怒らなくもなった。
自分は幸せ者だって思えるし、毎日、ぽかぽか穏やかです。
でも、「それでいいの?」と聞かれたら、「………」なんです。苦笑
私はとても欲張りなんだと思います。欲しいものもたくさんあるし行きたいところも体験したいこともまだまだいっぱいある。
ただ、私たちが生きているこの世の中は、欲しいものや行きたいところへ行くにはお金と時間が必要です。
望みを手に入れるためには、まだまだ自分が持っている不要な考え方やマインドを手放して成長する必要があって、それには勇気が必要だってこと。
欲しいものや手に入れたいものは、自分の手で手に入れるんだという覚悟をもって行動する必要があること。
人生半分費やして、やっとここまで気づけました。笑
目指す未来
「自立心をもってずっと幸せを感じながら自由に生きることができる仲間をたくさんつくりたい」
これが私の本当に望むものです。
本来、私たちは幸せで自由あるのが前提のはずなのに、いろんなものを背負って生きてきてしまっていて、がんじがらめの状態になっている人たちがあまりにも多いと感じています。
ただ、今、多くの人がそのことに本能的にでも気づき始めてるとも思っています。
いろんな経験や出会い、師からの教えなどを通して、この世界で幸せに生きるためのマインドをたくさん教えてもらいました。そのおかげで、今は毎日がHAPPYで次何が起こるかワクワクしている日々を送れています。
これからも自分を謳歌する生き方を楽しんでいきたいと思っています。
共感してくれた方は、ぜひ一緒に、自立した自分の人生を創りましょ\^^/
このノートでは
マインドの変わりや宇宙の法則などのちょっとスピ系な話や、恋愛相談アドバイザーとしての活動、40代からの女性の起業、自立などについて、そして趣味の旅行やオシャレ、グルメなども書いていけたらいいなと思っています。
どうぞよろしくお願いします!^^!
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