バンクーバーの朝日ホームグラウンドの光と影
バンクーバー朝日という野球チームをご存知でしょうか?
バンクーバー朝日は1914年より始動。
日系カナダ人がブリティッシュ・コロンビア州西海岸から強制的に収容所に送られた1941年に最後の試合を行うまで、朝日は当時から日系カナダ人の誇りであり、人種差別の厳しい時代にあって平等と尊敬の象徴でした。
現在は朝日野球協会(旧カナダ日系少年野球クラブ)として、バンクーバー朝日チームを記念し設立され現在も子どもたちがプレーしています。(ここ数年のツアーなどはキャンセルされてしまったようですが..)
朝日は、日系カナダ人の歴史の象徴であるとともに強豪チームに勝つため忍耐と創意工夫した野球チームとして有名です。バントや積極的な盗塁など、高度な戦略を駆使した頭脳戦で当時の他のチームを圧倒しました。 1922年からは、バンクーバー工業リーグで連覇を達成、 2003年にはカナダ野球殿堂入り、2005年にはBC州スポーツ殿堂入りを果たしています。
1941年、バンクーバーの日本町だったオッペンハイマー公園にある野球のダイヤモンドで、名球団「朝日」の最後の試合が行われました。
その年の12月、日本軍が真珠湾を攻撃すると、連邦政府は戦争法を発動し、すべての日系カナダ人を「敵外国人」として登録しました。そしてブリティッシュ・コロンビア州の西海岸にある100マイルの安全地帯から、日本人の血を引くカナダ人はすべて追い出されました。こうして、朝日野球部は東部地区に分散され、愛着のあるパウエルグラウンドで再びプレーすることはできなくなりました。朝日のリトルリーグなどに参加していた少年たちの朝日への夢は、一夜にして消えたのです。
立派な球団だったのにもかかわらず、試合に勝ち、優勝し、その巧みなプレーを称賛する新聞を読んでも、「ジャップ」「ニップス」という蔑称で呼ばれ、カナダ人とは決して認められませんでした。
日常生活では、どんなに学歴が高くても、人差別により就きたい仕事に就くことは許されませんでした。 映画館や屋内プールなどの公共の場では社会的に隔離され、一部のレストランにも入ることができませんでした。
そのような状況下で暮らす老若男女に、誇りと喜び、そして希望を球場で与える続けていたのがこの朝日という野球チームでした。
朝日野球チームは、平等と尊敬を求める日系カナダ人の闘いの象徴となり、解散し、抑留されたにもかかわらず、後世のすべてのカナダ人にインスピレーションを与える遺産を残しました。
かつて「あさひ」のメンバーだった故・須賀清氏は、「彼らは、海岸のどこに住んでいようと、我々のチームだった...我々のために戦ってくれた...我々に課せられたあらゆる困難にもかかわらず、彼らは我々が戦うことを示し、我々が何でも克服できることを示した」と残しています。
平等と尊敬を求める日系カナダ人の闘いの象徴であるバンクーバーの朝日のホームグラウンドであったオッペンハイマー公園では毎年日本のお祭りのような催しが行われていた人々の集いの場所でした。
でも2018年前後カナダ国内外の情勢、不動産価格の急騰、経済的さまざま理由により屋根のある生活ができない人々が増えました。
そしてオッペンハイマー公園は家のない人々の野宿村になってしまい、お祭りどころではない状態へ。↓
その後強制撤去が始まり
公園は綺麗にされたんですが、行き場所もなくオッペンハイマー公園でテント生活していた人々は一体どこに行ったかは分かりません。。
近くにシェルターが新設されたそうですが、全員入れたのでしょうか。。
このオッペンハイマー公園はバンクーバーのダウンタウンから東へ車で数分の場所に位置しています。
このバンクーバーイーストは気軽に立ち寄って写真を撮れる雰囲気のツーリストスポットではありません。
人々は路頭で寝泊まりし、注射器が落ちていて、路上で盗んできた物の取引が行われている、そんなエリアです。
桜を見にオッペンハイマーに直接行きたいところですが、やはり治安が良くないエリアですので立ち寄ることは避けてしまっています。。
差別、解散、勾留様々な試練を乗り越え、平等と尊敬の象徴である歴史的なグラウンドが綺麗になったことは素晴らしいことですが、見せたくないところを隠すためでなく問題の根源が解決されていくことを願います。
*追記
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