【短編小説】新卒社会人の憂鬱②
↓ これのつづきです
太陽はご機嫌だった。
一片の翳もないその顔と私との間には、遮るものがなかった。4月の日差しは強い。暑い。
風はご立腹であった。
しかし剝き出しの脚を撫で髪を掻き乱すその官能的な風は、太陽の無邪気な暴力性よりはずっと好ましく思えた。
この好ましさというのは、聊か都会風のものである。私の出生地はこの種の官能を兼ねていない。田舎、それも地方都市ですらない田舎に特有の、公的空間・私的空間の何れにも漂泊する、相対化を宥さぬ覇権的な当為の言説がそれを然らしめる。相対化を宥さぬが故に善の属性をしか持たぬ無慈悲な徳性は直観をば當てにすれど、その余蘊のなさは実態上の幸福や自由の観念を外面だけ良い歪な彫像に仕立て上げるのである。
要因はそればかりではない。嗜好や競争要因を持つことが己の存在を脅かすことに直結した幼少期、それは特殊であったかもしれないが、しかし私個人に限った問題であったとも謂えない。覇権に抗し得たのは、容姿端麗であるとか、運動が得意であるとか、そういった監獄の外に於いても通用する、普遍的な蠱惑を有する者であった。勉学に於ける才の発揮は、媚態若しくは倨傲の顕れとしか見做されなかったのである。ならば……、そうであるならば……、子供は勉強しようとするだろうか? 探究心を天秤の反対側に掛けたところで、それは容易には動かぬであろう。汎ゆる自己肯定の手段を失い、精神的、時には物理的な威力を差し向けられ行使される処のものとなり、生存域を追われ続けた気魂は、手づから己に猿轡を嵌めるまでに倒錯した原理を善しとしていた。そこには、一方向性をしか持たぬ、一度も相互作用もせぬ、純粋な消極性があったのである。
謂うに、マゾヒスティックな愉悦を嗜むための条件は、おそらくは日常に於いて積極性を、殆ど凡ての人が肯定するであろう理想的な自由を有していることなのである。己を全き開放することの欣喜雀躍が、逆らえぬ力に己を委ねることの快楽を生み出す、少なくともそれが条件の一つであるという思想に、私は偏執したくなる気がある。
然るに、田舎の学校でも一部の生徒は都会人然としたところがあり、また、マゾヒスティックな官能は都会人風のものなのである。私は都会の大学に来て漸く礼賛すべき自由を知り、決して逆らえぬものに統御さることへの愉楽を知ったのだった。
故に、この春風は私にとって都会のものなのだ。
履き慣れないパンプスで控えめに地面を鳴らしながら、平素より幾分小さな歩幅で進む。スニーカーばかり履いていた身体にこれは厳しい。一日が終わる頃には私の足の爪は赤黒く変色して了っているやも知れぬ。ただそれを今は嘆いても致し方がない。
最寄り駅から地下鉄に乗る。出勤先迄はここから6駅、その改札から徒歩2分である。
結句と言うべきか、平日の9時を過ぎた電車は空いていて空気も穏やかである。右斜め前方に座る大学生と覚しき少年がトーマス・マンの『魔の山』を読んでいる。私も負けじとカバンから三島由紀夫の『宴のあと』を取り出す。厚さ勝負ならば完敗だ。『禁色』を持って来ればよかったと、極めて阿呆臭く即席に、作為的に作られた対抗心を頭の裡で言葉にしてみる。己が作りし諧謔は屢々詰まらぬものだが、やはり今回もそうだった。頭を切り替えて本に目を落とす。
十数頁読んで下車した。
未だ初出勤も果たしていないとは云え、社会人の目は学生の其れとは異なるようである。雲行きや街に充満する幾何学よりは、人の意志に注意が往く。と云っても、9時も過ぎているこの時間に出社するのはやはりホワイト企業の勤務の人が殆どなのであろう、終末的な陰翳が人々の眼前に見受けられる訳ではなく、歴然と絶望を移した面持ちの顔はない。
しかしそれも、政治的無関心の産物であるのかもしれない。今の与党や極右的思想を持ち一定の熱狂的支持者を持つ野党の腐敗、SNS空間を主戦場とした、他人を省みない自由の行使をも是とする国民的な道徳の頽廃を謂えば、まったくもってそれは盲目の産物であると言えるかもしれない。余暇の自由度の高さ、それを可能にするための経済的充実。多くの人は悉皆其れをば気にすれば事が済むかのように、或いはそうする他に生きる術はないかのように見做すのだろうか。ナショナリズムやフェミニズムの高揚に準ずる、或いはそれに反する差別的言動の数々は、刹那的な消費行動による逃避を促進しているのかもしれない。勿論、視聴率の維持のみを凭處とし、徒に、意図的に対立、消費を煽るメディアもそれに大いに加担してるだろう。決して競売に懸けられぬという特権性に物を云わせ周波数帯を独占する一方で、匿名の個人ブログと変わらぬクオリティに顛落した日本の”報道番組”には疑問を禁じ得ない。いや、既に個人に依存した発信をすることでその不徳の責任をも個人に押し付け、旨味だけ吸い取るビジネスも成功体験を語られつつあるのかもしれない。既存の大手は自堕落を極め、相対的に個人的な発信の権威が増す。グロテスクだ。早急に専門家と市民とのコミュニケーション手段の確立を模索せねばなるまいが、ジャンクフード一辺倒の食生活に甘んじる快楽主義の蔓延は、社会が理性に基づいて論結することを忘却させ、数の”論理”による正当化の箍を外した。いや、これはむしろ、作り手の無道徳が、彼等の賎陋な生くる理合いが危機の時代に於いて白日のもとに晒されただけなのかもしれない。そして、己の論理に縋らずして自我を保てなくなって了った未熟さは疾うに不治の病と化し、喃語を撒き散らしては他者の関心を集めんとするのだろう。
無謬性への志向の高揚と時を同じくして、その厳格さ故に謬見を己の信ずる處となすことに仇する精神が衰萎し、少なからぬ個人が根拠の妥当性に応じた判断を失して了った昨今、最早無謬性への志向は逆説的に己の無根拠な信条をそれに反する汎ゆる言説と対等な地位を與えるという瀆聖を備えていた。してみれば、無謬性への志向という一見知への誠実さともとれる皮を被ったその気構えは、結果的に最も低俗な権威への迎合主義に符合する。それは、思春期から就職活動までを含めた、青年期に己の自尊心を皆乍らに陵辱されがちなこの国の現代人の特色なのであろうか。謂うに乃ち、正当性は己の與り知らぬ處のものであり、今の不遇は耐えねばならぬもの、或いは己の選択の集積としてのもので個人の責任であるといった際限のない責任追及と青少年にも極めて理性的な判断を求める不合理は、現在と未来の非対称の極致にある醜悪な理想像なのである。社会は保身のために決してそれに甘んじてはならない。社会はそうしないだけの正義感を持たねばなるまい。でなければ、一方で自由を礼賛する心地良いフレーズは、多くの人の尊厳を蹂躙するだろう。その社会に於いて、私たちは良心を如何に肯定できよう? 真理空間に非ざるものとして把握されるべき処のものにさえ疑義の対象として扱うという狼藉が蔓延る社会は実行力という力の論理にばかり追い縋り、多くの民は身も心も侵略され乍ら家畜の安寧を享受する以上を望めなくなるかもしれない。
「工場は地獄よ 主任が鬼で 廻る運転 火の車……」
虐使さる女工が歌いし歌に想いを馳せる。私の生活を作るものの中には、その凄惨さを物語る叫喚の残響がある。あまり徒な消費はせぬよう心懸けているが、やはりそれは確かに存在する。騒がしい日常に不感症となった私はその叫声に耳を傾けぬことも多いが、しかし何もない休日にUNIQLOを着る際、それは聴かれるのである。私は私に対する他者の憎悪を纏っているのだろうか? いや、憎悪をすら彼女等は望むことができないかもしれない。喩え私たちが彼女等の劣悪な環境下における労働を食い物にしていると知らされたとしても……。
思案を巡らしている間に研修場所である本社ビルの玄関前に着いた。今日から二週間はここで研修があるのだ。
私は姿勢を正し、顎を引いて、ビルの中に入った。
読んでくださいましてありがとうございます。
つづきはたぶん1ヶ月ごぐらいに投稿します。
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