【短編小説】新卒社会人の憂鬱①
目醒める2秒前からその端緒を感じていた。そう表現したくなるのは覚醒という出来事がおそらくは相応の時間の幅を持っているからだ。ここ1ヶ月の間、日に々々増長してきたその憂いは、最早睡眠という最大の逃避を宥さぬほど直ぐ其処に迫っていた。
卯月の朔日、本日は出勤初日なのだ。
南に大きめの窓が、西に室外機のスペースしかないベランダがあるこの部屋である。東経135度よりも東に在るこの都市で充分な光量を取り入れる余地があるこの部屋ならば、春分の日を過ぎた午前5時半は充分明るい。
天井を見つめる。この天井とは旧知の仲だ。学生時代から伴に在る戦友だ。大学のお膝元の街で職を見つけた私は、新生活を始めるに当っての引越をしなかったのだった。このアパートの外観は妖気を漂わすほどに醜悪であったが、中身はそれほどでもない。私はこの住居の老成した精神の虜となって了っていた。
憂い気に包まれた上体を起さんとする。しかし気が進まない。未だその充溢が故に烏兎匆匆と過ぎた学生時代との離別を惜しみ、無聊を強要する企業務めが引き起こすであろう不感症が私の人生を貪る様子を空目した。地球における客観的時間で言えばどうかわからぬが、私の寿命はこれによって漸減せらるるのだろう。少なくとも、私の青春がこれにて破局を迎えたのは確かである。いや、私は未だそれを諦めるほどに成熟してはいないのであるが、誇大な暗示を己にかけねば、今は過去が足枷になるのだということを直観している。
半年ばかり前、私は己が青春を内奥の筐底に秘しておこうとの決意をしたのだった。往きし年の長月、私は恋人と双方にとって前向きな別れを決めたのだ。別れの際も両想いであった。それからも私の気持ちは変わらぬし、おそらくは恋人もそうであろう。しかし私たちの間には未だ多くの障害がある。間には、というよりは前途には、と言うべきか。今はどうにもし難いものがあるのだ。それらを些事と見做せるほどに、経済的・社会的安定を手に入れねばならない。愛には条件や注釈などは要らぬ。しかし公的には、そうでない場合がある。私は二人の間の形而上的な愛に誰の目にも留まるような形態をもたせることを切望していた。それは今と成っても変わらない。それは倨傲心の顕れと形容するのは不当であるように謂う。一に二人の間に何にも脅かされぬあらゆる充溢を、二に互いの親族への孝順の命を果たすことを冀い、それ以外はまったくもって副次的なものであり、些末なことだ。
大学合格時に母に合格祝いとして買ってもらった枕元の腕時計を見る。5時35分。出社時刻は10時。終業時刻は19時……であることを願う。早く時計の長針が15周ほどしてほしい。しかしそれはおそらくは規則正しく、一定の速さで刻を知らせる。殆ど同じ速度で動く地球上の人間にとって、時間の経過は客観的に測られるものらしい。今なら一秒のうちに欠伸を3回ほど出来る気もしたが、それは不可能かもしれないとの現実的な推測も働かぬわけではなかった。生体の時間は、分子の運動はそれほど速くはなるまい。電気信号の伝達のみで爾が済むことも多い、主観的な時間はまた別かもしれないが……。
遂に観念してベッドから身体を起こす。掛布団を鬱陶しく払い除け、左側の坐骨を中心に寝相の良い身体を90°回転させて両脚をベッドの麓に下ろす。この時の膝の角度は直角倚りは幾分小さい角度になる。しかし脚が長いことへの自尊は誰かに物色される虞のない此処に於いては否定の対象にも肯定の対象にも成れない。上体を傾け、重心を前に遣る。土踏まずに為れなかった足裏の細胞が、重力に対して抗う。
私は洗面所を兼ねた台所に向かった。
前日に呑んだ酒が未だ血管を廻っているらしかった。昨晩の己が愚行を悔いた。いや、悔いていないかもしれなかった。その疑念の翳を生じさせる光を壅塞する気が露ほども起きぬその偏執こそが正に、酒気を帯びていることの証左なのだろう。いや、それもまた違うだろう。未だ酒気が抜けていないなどあり得ない。現にそう感じない。一先ず己を肯定せねば、この憂悶と付き合えぬのだ。
嗽をする。歯を磨く。磨き乍ら、フォローしている議員や記者、学者のTwitterを巡回して思索に耽る。細かく見れば短時間で非常に多くのことを熟しているかもしれない。しかしそれも一度日常にプログラムされたならば称賛を得られない。
用を足して、換気扇がユニットバス内の空気を入れ換えている間にマグカップと耐熱水筒に安いインスタントコーヒーの粉を入れる。湯を沸かしている間に腹筋80回、そして腕立て伏せは30回を2セットする。沸いた湯を水筒に注ぎ、それからマグカップに少量注ぐ。カップを揺すって粉を溶かした後、氷を一欠片入れて再び湯を満杯近く迄入れる。熱いのは苦手なのだ。
整腸剤を口に4錠含んで、コーヒーで流し込む。続けてDHAのサプリメントを6錠口に含んで、残りのコーヒーで流し込む。カップが空いたら、野菜ジュースを200 ml程度飲む。他人から見ればなかなかに非道い朝食であるように映るであろうが、これが私の日常だ。あとはシャワー後、豆乳に青汁の粉と粉末ホエイプロテインを投入した飲料を摂取する心算だ。
私は朝風呂派である。如何して皆が早起きしてそれをしないのかまったくもってわからぬほど、頗く朝風呂を愛している。起きしなの運動、懶気なりとも健康的で脳を覚醒させる朝食、口内の表面の細胞が渇れるほど快活なマウスウォッシュ、それらの美も朝風呂の基底なくしては瓦解する。尤も、静寧な日常に埋没して了った美が私の目に留まることは殆どない。ただ、その美を相対化・対象化して想起する度毎に、その美が卑近なほどには人工的でないこと、美の奥に醜悪な翳を見せぬその高潔を認めては、己の美的観念に誇りを感ずるのである。
漸くにしてシャワーを浴びる。41℃。熱めの湯を好む私だが、4月ともなればこれぐらいがちょうどよい。顎をやや上向きにして、左手を右肩に置き、頭上から暫く湯を流す。ツマミを最大限に捻って水勢を強めにするもゲル状の憂鬱は私の下から離れない。善きにしろ悪しきにしろ、物理は、或いは生活は猛々しい美醜を鞣して形而下に引き摺り降ろさんとするが、今は私の願いを叶えては呉れない。そもそも時の流れに伴う思想の発展ほど柔軟かつ強剛な免疫の獲得は望むべくもないが、悉皆眠りから醒めた理性は交感神経の優位性など殆ど意に介さない。天秤に架けられることを拒絶する直観的な無条件の美に私が凭れ掛かることができるのは、凡そ眼前の状況が充分に理解に事足りて、かつその対処法を熟知している場合に限るのだろう。
出勤迄この憂悶を払い除けることはできぬようだ。そう観念して身体を洗い始める。頸より下を映す鏡には蒸気が付着し、光を屈折させる。シャワーヘッドの噴射口を前方に遣り、鏡面を均す。肉体が露わになる。幼少から田畑で農作業をしてきた肉体は、日に灼けた琥珀色の骨太である。浅紅色の一双の蕾を持ち上げるやや大きめな乳房には官能が盈溢し、己の純潔の厳威を輝かしめる。また、農作業中に急斜面から転落して負った右腕の桃色の古傷は、身体が随分と成長して男性並みの体格となった今では豪傑の息差しと誤またれて解釈せらるることまである。その膂力は近ごろのメディアが作った蠱惑的な女性の塑像を、否、そのメディアの傲慢と野鄙な信心を侮蔑する精神性の、時には瀆神をも辞さない自然の顕れと云ってもいいかもしれない。が、その表現とて適切ではあるまい。拠るところは理性と非常時に揮われるべき少々の腕力である、それで充分で、それ以外は全くの諧謔に過ぎない。ともかく、美の、或いは善の合目的性が転化したことは語られずに帰依の対象の差異が広告やSNSに因って隠蔽されたこと、それは本来まったくの些事なのであるが、しかしそれを悔やむ心持ちがまったくないことはない、そしてそれこそがやはり己を軽蔑せしめ、自然を愛する所以となるのである。
湯浴みを終えて携帯電話を見ると7時であった。ドライヤーをし乍ら時間を気にする。諸々の支度に40分、通勤に25分を要するから、10分前に出社するとならば1時間半の余裕はある。しかし先日まで大学生であった私にとってはそれは物足りなく感じる。それほどの時間では本を1冊読むのは困難だ。そもそも今日は昨晩に深酒をして眠りが浅く、偶々早起きできただけに過ぎぬのだ。7時に起きれば自由時間は大凡残らない。
朝、冴えた頭で読書をすることを好む私にとって、出社時刻が10時というのは聊か憂うべきところのものである。ただ、今月の下旬からは生徒の放課に合わせて夜型の勤務時間になるらしい。これは私がこの企業を選んだ理由のひとつだ。
一通りの風呂上がりルーティンを終え、化粧を済ませ、クッツェーの『鉄の時代』を読む。アパルトヘイト下のケープタウン、末期がんを宣告された初老の女性が黒人への暴力を描く、というものらしい。明るい話ではないだろうが、私が小説に抱く期待は屢々そういうものではない。『アンナ・カレーニナ』などの世界的名著はその名声故に読む気を起こさせたが、大抵は故知らず惹かれ手に取ることが多い。
小説を読んで意味があるかどうかと聴かれれば、私はないと答えるだろう。しかし実のところ、意味はあるのである。どんな風に登場人物が抑圧されているか、何に悩み、それをどうして心の裡に押し留めるのか。それが如何ように表現されるのか。それを受けて、私がどう感激し、懊悩し、そこから何を思考するのか。それらを小説を読む効用として語ることもできよう。しかし、それは読書前には予期せぬことなのである。それは詭弁であり、己の読書体験を歪曲している。小説を読む意味を問う者は、おそらく読む前から目的がほしいのであろう。ならば私が語ることはあるまい。私はそのように読書を始めないのだから。極めて個人的で一般化し得ぬ叫びのような、あるいは呻き声のようなものは大っぴらに表現されるものではない。それらは世間を厭う。簡略化を悉く嫌う。その固有性を譲らない。当にその状況を必要とする。毎度懐中電灯を常備する用意周到さは、小説を読み始めるに当っては夾雑物となることを免れない。
半分ほど読んで中断し、2ヶ月前に買った青土社の現代思想の論稿を2つ読むと9時であった。そろそろ着替えなければなるまい。そう思うと憂鬱さが増した。
またいつかつづきかきます。
めっちゃあいだあくとおもいます。
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