天ぷら屋が、チェーホフの「かもめ」最後のセリフを放った話
うちの店の通りでは演劇のイベントが行われている。
休日の昼に、2つの公演を観た。
出演者それぞれの身体の特徴が活かされていた「探索者」。
小雨の中、野外で演じられた一人芝居は、生きる苦悩と雨がリンクして引き込まれた。
どちらにも、今の時代を生きる苦しさが織り込められていたのが、印象的だった。
その後、自転車で体を動かしたかったので、雨の中で上野まで行って、麻婆豆腐を食べて戻ってきた。
今日は夕飯の係だ。
下ごしらえだけして少し寝ようと、スーパーに立ち寄るとLINEが来ていた。
ご近所同士の関係でもあり、演劇に出演される時には必ず観に行っていた俳優さんから。
この演劇イベントの、チェーホフのかもめを読む会に参加したいんだけど、一緒にどうか?と。
「いろんな意味でこんな機会ない!」と、折り返し連絡をして、参加させてもらうことに。
現代語訳に今回翻訳し直した「かもめ」を翻訳者を含めて読む。
ワークショップの時間は3時間、という。
参加者全員が演劇に携わっている人達だろうから、俺なんかが参加して良いのか?見学ぐらいにしたほうが良いんじゃないか、と迷いながら会場に行く。
スタッフ以外、まだ誰もいない会場に私と誘ってくれた人だけ。
開始まで誰も来なかったら、俺とその人だけでずっと読み続けるのか!?と心細くなった頃、少しずつ人が入ってきて、私以外にもう一人、初めての人もいてくれた。
おぐセンターの店長。
「これでひと安心だ〜」とホッとする頃、会が始まった。
かもめの登場人物より参加者が少ないので、だいたい一人二役。
立候補していく。
私は昔からカタカナの固有名詞(名前や地名)が、異常なくらい苦手で頭の中に入ってこないので、とにかく短い名前の2人を選んだ。
ドルンという医者と、コックだ。
ドルンは偶然私と同じ55歳で、世の中を斜めに見ているような人で、自分の性格にも合っている。
コックのセリフは一回だけ。
これなら大丈夫かも。
いよいよ始まる。
最初は出番がないので、みなさんの読みを聞いていく。
私の隣では、いつも舞台で聞いているその人の声が、舞台と同じ声色で聞こえる。
(えっ、初めて目を通した訳の脚本なのに、こんなに生き生きと読めちゃうの!?)
また、地元の演劇イベントで何度か鑑賞させていただいた俳優さんも、上手い!
(今まで聞いたことのないこんな声も、軽々とできちゃうのか、その役の人の性格を完璧に、声で出せちゃうんだ!)
私と同じく初心者の店長も、とつとつとした誠実そうな語りが彼らしく、ピッタリハマっている。
そろそろ俺の番だ。
皆さんが読んでくださったので、どんなテンションでやれば大きく外れないのか分かった。
俳優さんたちの洗練された語り口を真似すると、かえって聞き苦しくなるだろうから、自分が近所のヤブ医者になったつもりで、自分ならこういうテンションで言うよな、という声を出してみた。
大丈夫そうだった。
さっき書いたように、カタカナの外国の名前を覚えるのが苦手で、誰と誰がどういう関係なのか、さっぱり頭に入ってこない。
人間関係図を書いてくださっていたのを見直しても、数秒後には記憶から遠ざかってしまう。
とにかく、自分のセリフの一つ前の人のセリフを読んで、その返事のテンションをイメージして語った。
少し慣れてきた。もともとセリフが短いので楽だ。
1時間もやっていると集中力が切れてくる。
やばい。みんなはどうなんだろうと、俳優さんたちの声に耳を澄ますと…
今までのはウォーミングアップだったの?くらいなテンションで、どんどん役柄が乗り移って、熱量も上がってくる。
すげぇ。
自分ももう一度、気合を入れなきゃ。
俳優さん達は、聞きやすいように、感情の変化が分かりやすいようにメリハリが美しい。
どうせ自分は素人だ、読み間違えてもいいだろう。二度とない経験だ。
そう思い、短いセリフは暗記して、ドルンという医者ではなく、天ぷら屋の私がしゃべっているように語ってみた。
普通のおしゃべりは、いちいち間(ま)を考えずに喋ることができるが、演技での間は難しい。自然な間ってなんだっけ、そんな事を考えて試してみる余裕も出てきた。
皆さんの熱量が上がっていて、途中で帰るとは言えない状況になってきた。
とりあえず夕飯の支度を大体しておいてよかった。
あと何枚で、そのリーディングは終わるだろう、あと自分のセリフはいくつだろう、そっとプリントをめくる。
(えっ!)
凍りつく。
最後のセリフ、俺じゃん!
しかも、俺の苦手な外国人の名前が2つも入ってる、ここで噛んじゃ駄目だ。
いくら素人とはいえ、最後は確実に決めないと。
しかし、そもそもこの2人は誰だっけ?そして、その役をやっているのは、今日どの俳優さんだ?
ヤバい…
読む役の人とその人間関係図を慌てて見直すと、今度は、誰が今どこを読んでいるのか分からなくなる。
焦る。
そしてついにエンディング。
ゆっくりと丁寧に名前を間違わずに読む、それだけを考える。
「アルカージナさんを、ここから離れさせてください。トレープレフが自殺しました・・・。」
(幕)
最後のセリフをゆっくり読んだのが、セリフに合っていたようで、ちゃんと終えることができた。
「初めてなのに、いい経験をさせていただきました。」
私はそう言って、家の食事の最後の作業に取り掛かるため、先に帰宅させてもらった。
帰り際、ふと考える。
今日読んだ「カモメ」って、全体のうちのどれくらいなんだろう。
あれっ、2時間くらい読んだということは、ひょっとし、全部演ったってことか…
俺もか…!?
貴重な経験ありがとうございました。
家に帰ったらのどが渇いてビールを立て続けに2杯。
それだけで酔っ払って、早々に片付けて寝ました。
おやすみなさい。