質的研究法の研修をしてきた話①~kj法について~
質的研究法の中で私が中心的に扱っており、
研修の対象でもあった質的研究法は「kj法」と呼ばれるものだ。
kj法の話が中心になるので、
今回は(いつもか?)割と小難しい内容になると思われる。
kj法は十数年前に亡くなった川喜田二郎氏が創案し、
洗練させた質的研究法の1つである。
現在kj法というもの(名前?)は商標登録されているもので、
(この辺りの権利関係のことがよくわかっていないのだが、)
正式には本家の(?)行う研修等を受けて
認定される必要があるそうだ。
しかし、私は特にそういったことはしていない。
今回の研修は基本的に身内だけで行い、
宣伝してるわけでもお金を取ってるわけでもないので
まあ許していただけるのではないかな、ととりあえず思っている。
パッとnoteで「kj法」と記事を検索しても1000件以上出てくる。
書き上げてからいくつか目を通してみたが、
全ての記事を読むのは素直に諦めた。
ひとまず、以下の内容では私自身のkj法の経験を中心に据えた
見方・考え方をベースに述べていることは覚えておいてほしい。
(何かあった場合にはこの周辺の記事は消える可能性はある。)
〇質的研究法との出会い
私とkj法との出会いは大学院で教科書分析をした授業だ。
当時は質的研究という言葉を知りもしなかったが、
半期に渡って日本の古い教科書と自分が使っていた時代の教科書から
一部分だけ、同じ分野に絞ってどのような内容が扱われていたのか
ということを分析した、と記憶している。
担当の先生からこのような手法を使って、
このようにやりますということを教えてもらい、
ほぼ毎授業カードを机の上に並べて、
受講生はそれぞれ個別に自分の対象について作業を進めた。
あまりはっきりとした記憶は残っていないのだが、
初めてやったkj法はそれほどしっくりと来た覚えがない。
かと言ってそう大した違和感も覚えがない。
いつの間にやら終えてしまった感じだ。
その後もなんやかんやとkj法と言われるものに触れる機会はあったので
そこで少しずつ経験を積んでいったのだろう。
(あまり意識的な訓練?はしていない。)
〇何かを勘違いされているっぽいkj法
経験した人にはわかるかもしれないが、
カードを机に並べて、似ているものを探してグループにしていく、
という作業の中にどれほどの苦労(?)があるかは
言葉に書き表そうとしても、まあこれがどうにも伝わらない。
苦労という言葉選びに迷って、結局“?”をつけるだけで
終えてしまうくらい伝えられない。
kj法やそれに類似する、あるいは多少変形させたような方法について
ライトに書かれているものはnote内外におそらくいろいろある。
それらは読みやすく、作業の様子などがわかりやすい。
それらの記事を否定する気は特にない。
しかし、いつも気になっていることはある。
それらの筆者がどのような熟達者で、
どのような経験をしているのかはわからない。
しかし、やはり作業部分以上のことを表現することが難しいからなのか、
それとも筆者自身にも見えていないからなのか、
kj法の深みに触れていると感じるものは見た覚えがあまりない。
(私が積極的に探していない、というのもあるかもしれないが。)
時々どこかの学校などで授業や実践の振り返りなどに
kj法を使う取り組みを見かけることもある。
それはもう付箋やカードに自分の思ったことを記述して、
安易に自分の既成概念や気持ちや思い込みで枠組みを
作り出しているようにしかほぼ見えない。
最後は「みんなこんなこと思ってたんだね」くらいの感じだっただろうか?
自分に見えていなかった考えや意見を交流した、ということなのだろうか?
それ自体が振り返りとして有効な場合はもちろんあるし、
それをすることに対して私自身に否定的な気持ちはないが、
ではそれがkj法なのかと思いを巡らせば、そういう感触はない。
〇kj法の深みに手が届かない
今回の研修の参加者の中に感想で述べてくれた人がいたが、
「自分が今までに教員研修などでたまにやっていたkj法というのは
エセkj法だったんだなと感じた。」
と言うようなお話だった。
kj法の手法は作業的な難解さはあまりない。
自分たちの考えを整理したり他の人と意見を交流するために
ライトに取り組む手段としてその手法を真似ることは
端的にわかりやすく、やりやすいと感じる人もそれなりにいるだろう。
この作業の簡単さ、簡便さは誰にとってもありがたいことだが、
それが反って、kj法に深みがある作業だと予感させてくれない、
といったようなことだと少し感じる。
ただ、「発想法」と銘打って世に出された本に書いてある手法が、
それほど安易で単純なことだけを目的としているとは思えない。
「発想法」などにはやり方が書かれているし、
認定の講習やセミナーなどを受けなくとも
その方法を知ることはある程度容易だ。
私が大学で先生から習ったこともそうだし、
現在はネットの普及によって
より情報を得やすくなっている部分もあるだろう。
それ以前からたくさんの人が本を読むことによって学び取り、
それぞれが多少なりのオリジナル化をさせていったことは想像に難くない。
しかし、kj法の作業的な側面ではない、理念やノウハウなどを
端的に、的確に、誰にでもわかりやすく表現することは難しい。
あるいは、本に書かれている言葉から理解することが難しい、
とも言っていいだろう。
本を読んで、誰かから聞いて、
よくわからなくてもやってみようというのはいいことだとは思うが、
結果的にそれがkj法を多く派生させた理由でもあるだろう。
世にどれほどあるのかはわからないが、
そういった派生kj法の多くがおそらく、
表面的な部分だけを真似られて広まっていったのではないかなと思う。
〇重要だったのは手法ではなく作法ではないか
あくまで私の認識だが、
kj法の手法はkj法の理念や精神を守るためにあるもので、
kj法をする際に重要になるのはどちらかというとその作法だと感じる。
手法というのは単なる作業的な手順や方法で、
経験や考えなどに関わらず単に行う過程での作業的な意味合いとして
この記事では使わせてもらっている。
しかし、ただその手法を聞いて取り組んでいる人の行動は、
kj法をしているとは思えない行動によくなる。
私が最もそうだと思う行動を挙げるならば、
「迷いや立ち止まりがほとんどない」ということだろう。
安易にグループができていき、
場合によってはそれだけで終了することさえあるが、
何に注目して何を見出したのかが全くない。
どこかで見たような、考えたことがあるような状況整理で終わる。
実際に目に見える作業として行うことは確かに同じなのだが、
そうしている理由や意味を
何らかの形で理解している必要があるのだろう、と考える。
そして、その理解がkj法を行う際の所作(≒手法)に現れるし、
自分が立ち止まらないといけない瞬間に気づかせてくれる。
その先に、自分がどうしていけばよいかが見えるようにも
慣れてくるとおそらくなってくる。
まあこんな書き方をしたら自分ではうまく表現できないと言っているのに
やる人には理解しろというわがままな主張のような感じもするが、
そのために本家ではセミナーや講習を行っているのだろう。
私自身は記事でkj法のやり方なんて紹介する気はないが、
やはり言葉だけで表現するには限界があると思う。
今回行った研修も、ほとんど活動ベースの内容で、
言葉で説明できるようなことはたかが知れている。
〇kj法が「発想法」であるということのすごさ
権利関係のことやセミナーや講習のことなどもあって、
kj法という言葉を堂々と使うことに抵抗や不安がある部分は確かにある。
それでも私があえて名前を隠さずkj法と書いているのは、
「発想法」という本に書かれていることが大切だと思っているからだ。
どうせこの名前を出せばどの手法を用いたかなんてすぐにわかる。
kj法の手法はよくできていると感心すると同時に、
至って普通のことをばかりしているとも思えてしまう。
わからない雑多なものについて自分が理解を及ぼそうとした時、
似たものを集めて共通点や類似点を探すことは
我々が率直にできる平易な方法であると思うし、
そこから話を構造化して大きな理解や知見を得ようとすることは
考え事の次元を上げ、認識を広くしてくれる。
興味がある人なら、自然と取れる思考だろう。
生物の形態を中心とした分類学などの分野では
それこそ同じことをしているように思えた。
全く一緒ではないが、イメージとして例えるならば、
外国人か異星人の部屋の片づけや引っ越しの手伝いをしているのに
近いだろうか。
何があるかよくわからない、雑多で大量のものから1つずつ手に取って、
同じ場所に似たもの置き、部屋の中を整理していく。
そしてその人の過ごしやすい部屋としてデザインしていく。
このように、自然な行動や思考として行うことを手法の中心としている。
だから私はkj法というものは
誰かに教えてもらうようなことではないと思っている部分がある。
と同時に、やる人によって個性や癖のようなものが出るだろうと感じる。
ただし、計画的に発想する手法として練られている点は、違う。
分野や内容にもよるが、人間の営みにおける多くの場合、
そういったことは頭の中で考えたり、誰かと話し合ったり、
せいぜい文章に書き起こしながら整理したりする程度だろう。
それを個別のカードに書き起こして物理的に目の前に置いて、
そこから発想に至るまでの一筋の通り道として確立されていることにこそ、
価値があると思っている。
発想だとか、閃きだとか呼ばれるようなものは、
いつ自分に訪れるのかわからず、
いかにもただ待っているしかないような気にさせる。
しかし、kj法はそれに対して1つの方法を示し、
自分から手を伸ばす可能性を示してくれていると感じる。
kj法の理念や精神を価値あるものと認める上で、
少なくとも同じ手法を取る限り、創始者に敬意を払って、
今回のような研修ではこれは「kj法」なのだと伝えておきたい。
この記事でこうやって自分の考えを書くことで、
私のkj法に対する理解の形と思い入れが
少しは伝わればいいかなと思っている。
次回は実際にやった研修の流れと雰囲気を書いていく。
考え事や書き物に時間をより多く割こうとした時に、 サポートを受けられることは大変助かります。 次もまたあなたに価値ある投稿となるとは約束できませんが、 もし私の投稿の続きに興味や関心がありましたら、 サポートいただけると幸いです。