悔し涙の理由
悔しくて涙がでた。パートナーから何で悔しいのかときかれた。
自分が選ばれなかったことの悔しさと自分を過小評価されたと感じたことの悔しさと自分がやってることを否定されたことの悔しさと部分だけを見て中をみようとしていないんじゃないかという悔しさと、色んなことが入り混じっているように感じた。
とにかく悔しかった。
悔し涙が頬を伝った。
流れる涙、そして悔しい涙を流したのはいつぶりだろうか。
私の感情が揺れ動いた。感情が揺れ動き、涙が流れた。それは悔しい。何だか悔しい。その一言だ。
パートナーが言った。
わからない人たちは所詮そんな人たちであり、こっちから願い下げだと伝えればいいと。
そうだ。こっちから願い下げだ。と同時に私を過小評価したということではなく、大企業でそれなりのポジションで働いている人たちがなぜ本質を見抜けないのか、現実を見ないのかという悲しさを感じたんだと思った。
仕事だけではなく、一顧客としての残念感を抱いたんだと思う。
だからこの涙は悔し涙だけではなく、期待しているからこその残念感と同時に思ってはいたけれど、やっぱり私が思っていた事は当たっていたのかということの確信というのが入り混じっているんだと感じた。
悲しいのではなく、残念、そして悔しいのだ。
仕事したくない人はしなければいいと思っている。お金をもらえることを当たり前だと感じていないだろうか。お金をもらえる対価をあなたは払っているのだろうか。
お金をもらえることは当たり前ではない。価値への対価それが報酬だと思う。本気で仕事をしているか。自分がその仕事についている意味を考えているか。
お金を稼ぐ側だからこそ、サラリーパーソンに思う、あなたはその給料の価値を貢献しているのか。
こうやって書いていると頭の中が整理される。わたしは自分が選ばれなくて悔しいんだと感じていた。
でもこうやって書いていると思った。
一顧客になったとき、あなたの視点はずれているよと感じたこと、そして大企業の重要なポストである人がそれを見抜けなく、表面的なことで誤魔化そうとしていることを感じた残念感がこの涙なんだと。
わたしはその企業の一顧客として期待していたんだ。色々違和感を覚えながらも期待していたんだ。そしてその違和感が明確になったのだ。そして残念におもったのだ。
有名になればそれだけの期待を背負っているんだと思う。期待を裏切られたと感じたとき人は残念に思い、批判する。
それはわたし自身にも言える事だと思う。私自身だれかの期待を背負っているとも言えるのだろう。誰かの期待を裏切らない自分でいたい。
そして私は私を貫きたい。これからの時代はわかる人だけと付き合いたい。
思いが共有できない人は私とは次元が違う人だと思う。私は私である。そしてそこには信念があり、軸がある。
表面的な事で誤魔化される時代は私の中で終わった。そして表面的なことしか見れない人はその人たちでつるめばいい。そして狭い価値観の中で生きればいい。
酔っ払いながらこれを書いている。多分後でみるとこんなこと書いたかな?と思うような気がする。酔っ払いの愚痴だとも書きながら思う。
そひてわたしは私を好きでいる。だれから否定されようと私は私でいる。
そしてそれがわかる人とだけ、私は付き合うことにする。それは書いていることと矛盾もあるのはわかっている。ある意味自分で視野を狭めているのかもしれない。
広い視野を保ちつつ、物事を多面的にはみたい。そして一部だけをみて全体を見ない人にはなりたくない。すでにそうなってると自覚しているからこそ思うのかもしれない。
そしてそんな自分にいいきかせているのかもしれない。
私の頬を涙がつたう。この涙は決して無駄にはしない。負けるもんか。
こっちから願いさげだ。絶対付き合わない。あとで後悔しても絶対に付き合わない。