ママ友からの攻撃
ママ友ってどんな存在か
ママ友って何だろう。子供繋がりの友達、それがママ友。それがほんとの繋がりになってる人もいれば、上部だけの繋がりになってる人たちもいる。
私は友人が多いと思っていた。すぐに誰とでも仲良くなるし、基本愛想がいい。
私は子供繋がりの友達でもほんとの友達だと思っていた。実際そんな言葉もお互い掛け合っていたし、子供の繋がりでこんなにいい出会いがあるなんてって思っていた。でもママ友がほんとの友達かというとそうではなかったなと思った。
今日はそんな話を思い出したので書いておく。でもこれはほんの一握りの人たちの話、みんながみんなこんな人ではないとも思っている。
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ある仲良し4人の物語
あるところに仲良しの4人組がおりました。みんなそれぞれ仕事をしていて、主婦業はもちろん、仕事も頑張っている仲間でした。
お互いに何でも相談し合う、励まし合う、尊敬し合う、そんな関係だと思っていました。みんな明るいし、価値観も同じように思っていました。
そんな時、私に事件が起こりました。いつもとは違う様子に気づいた友人たちは私に何があったのか聞いてくれました。だから私は自分に何があったか伝えました。でも基本関西人の私はそんな事気にしてない風に伝えました。思えば伝えた所から間違ってたと思うし、伝え方も間違ってたように思っています。
ある時1人の友人が彼女の憧れの会社に転職しました。元彼女の職場であり、彼女がずっと戻りたかった外資系の化粧品ブランド。みんなでそのお祝い会をしました。私も自分の事のように嬉しかったです。みんながハッピーになって願いが叶って成長していくことが私ごとのように嬉しくて嬉しくて、そんな仲間が集まってお祝いできる時間が私にとっては素敵すぎる時間でした。
みんなで彼女の好きなワインを飲みながらお祝いしました。彼女はもしかしたら飲み過ぎたのかもしれません。だんだん口が悪くなってきました。普段はポジティブで気遣いがあり優しい彼女がだんだん変わっていきました。そして私に言ったんです。
そんなんな、こんなガリガリのヤツだれが襲いたいねんなー
大体アタマノセイリちゃん3人子供産んでんねんでお股ゆるゆるやで
アタマノセイリちゃん下から産んでるやろ?だからお股はゆるゆる。そんなやつ気持ちもよくないで
そんなんな子供もおって生娘でもあるまいし今更ガタガタいうなよ。大したことちゃうやろ
私は2人、○○ちゃん1人、アタマノセイリちゃんは3人。お股ゆるゆるー
誰やねんそんなもの好きなヤツ、写真だしてみいや、ほら○○ちゃん検索して
それをいいながら笑う。やめてと言ってもお尻やら胸やらをバンバン叩き触りながら駅前の横断歩道やエスカレーターで大きな声で
お股ゆるゆるー!
と笑いながらみんなに聞こえるくらい大きな声でいいました。やめてといってもやめてくれませんでした。そしてあとの2人も気づいてないのかなんの関心もないのか注意もせずスルーでした。私はフラフラしながらやめてやめてといいましたが、彼女はヘラヘラ笑いながら電車に乗っていきました。そこから先はよく覚えていません。でも大きな声で言っていた言葉は今も忘れることはできません。
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飲まれる人は飲むな
私は飲んでも飲まれない。基本酔うほど飲まないし飲んでも自分が記憶なくなったり、普段と何か変わる事もないから、この時の彼女のような状態になることはない。
大きな声でゆるゆるゆるゆると何度も大声で連呼された時、恥ずかしくて仕方なかった。酔った時の話だからという問題じゃないと思っている。思ってないことは口から出ないと思ってる。思っていたから出たんだと思う。
私と彼女は価値観が違う。あなたにとっては何ともないかも知れない。でも主人以外とだれともした事ない私にとってはとてもとても大きな問題であり、ショックな出来事だったんだ。
いつもは上品にしているその当時の仲間たち。みな駐在ママだったり、ご主人は外国人だったりする。普段との違いに驚いたこと、そして酔った時には本性のようなものが出るんだと私は思った。
処女でなければ襲われても問題ないのか
子供がいるからとか、生娘でないからとか関係ないと思う。処女じゃなかったら襲われてもいいのだろうか。嫌なものは嫌なんだ。
こういうのが私が爆弾と呼んでる出来事だ。
そしてこういった事柄がヴィクティム・ブレーミングの代表だと思っている。(ヴィクティム・ブレーミングについては過去記事をどうぞ。)
彼女が私に言った言葉の数々は人間としてどうなのかと私は思ってる。この件でまた人間不信になった。そこから学校に行くのがとても嫌だ。顔を合わせるときっと思い出してしまう、あの時言われた事を思い出してしまう。
止めない事も罪だと思う
言ったのは1人かも知れない。でもやめてといっても他の誰も動かなかった。・・・というか彼女が酔っ払って暴走してるから動けなかったのかも知れない。なぜなのかとか状況はわからないけど私には辛い時間だったし多分これからも忘れられない出来事になった。
これはいじめも同じような事柄が起こっているのではないか。加害者だけではなく、傍観者も問題だと私は思っている。傍観者も力を合わせれば何とかなるんじゃないか、つまり状況を悪化することを防げる止められるという事だ。しかし関係ない、もしくは関わりたくない、怖いという気持ちから傍観者する、スルーする。そんな事がおこるのではないだろうか。少なくとも私はそんな人にはなりたくないと思った。
このままじゃ卒業式があった時、私は子どもの卒業式に出られないように思う。子供のためには出たい。私の為にも出たい。でも出るともしかしたら顔を見たとたんフラッシュバックで倒れてしまうかもしれない。
そんなのほっとけ、忘れたらいいと思う人は多いと思う。でも私は多分忘れられない。
一旦幼少期の虐待の記憶が戻り、人は辛い事も心の奥底にしまっているだけで忘れられないんだと思った。そしてしまっておいた記憶が戻った時にはさらに苦しいことがわかった。
誤魔化すのではなく受け止めていくこと
だから私は自分を誤魔化してやり過ごすんじゃなく、しっかり起こった出来事を背負って受け止めて考えつくして自分の経験として消化して納得してそれも私を構成する大事な出来事として持っておきたいと今は思っている。
考えすぎだ、忘れろと言う人はたくさんいる。でも私は忘れることを意識することはごまかすことだと思っている。だから忘れることを意識はしない。同時に良いことは数えていきたいと思っている。
ネガティブな出来事はポジティブな出来事で中和できる。だから起こる出来事は全てまずはちゃんとしっかり受け止めていきたい。どれも私を構成する出来事なんだからポジティブもネガティブもほんとはなくて、私に起こった出来事、ただそれだけ。
これからのために
今から卒業式を想定して彼女らに出会っても大丈夫な私でいられるように訓練しておきたい。
そのためにやっていることが、自分の成長記録をこのnoteに日々書いていくということだ。毎日成長したと思うこと、良いことを探してしっかり記憶に残していこうと思っている。
この出来事で思ったことは人は取り繕ってもボロが出ると言うこと。例え高級ブランドで身を固めようとも、過去の経歴がどうであろうと、体裁のいい職についてようとも人間40歳をすぎると内面が表面化すると思う。
だからこそ日々、相手の立場を想像し言葉をかけていきたいし、習慣として自分の心をよりよく整えていきたい。
私に起こった事は私にしかわからない。理解は当事者しか出来ない。だから寄り添うだけでいいんだ。そんなことがこの時の出来事で分かったことだ。それだけでも私の人生にとって大きな成長である。
私はそう思いたい。そして本当の友達とは何かを考え、素敵な仲間と過ごしたい。この話はママ友だからどうではなく、私に人を見る目がなかった事が原因だと思う。
周りにこの話をすると、妬みなのよ、羨ましいのよという。そうなのか。うらやましかったら人を傷つけるのか。その価値観はよくわからないがそんな人もいるのかも知れない。少なくとも私はそうはなりたくない、そう思った。
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