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東インド会社の「責任」:【ESG投資/経営の歴史】

 前回の記事では、近年の企業経営や投資における「ESG(環境・社会・企業統治)」ブームへと続く、企業の社会的責任(CSR)や社会的責任投資(SRI)の現代史について、ざっと概説しました。ただ、私の関心はもっと昔、近代以前にESGやサステナブル経営の概念ってどうだったんだろう、というところにあります。近江商人の「三方良し」という言葉があるように、商業活動においては、ESGやサステナブルといった考え方の方が歴史的に普遍であり、「法人(特に株式会社)は利潤最優先でよい」というロジックがまかり通った20世紀が異常な時代だった、というのが私の仮説です。

 さて、この仮説の検証にあたって、前回の参考文献である以下の本にヒントがあったので、今回はそれを見ていきたいと思います。

そもそも東インド会社とは

 近代以前の例(※1)として、この本ではイギリスの東インド会社が挙げられています。「東インド会社」という言葉は、おそらく、遥か未来で人類に語り継がれるであろう数少ない「株式会社」の一つです。なぜなら、1602年に設立された世界で最初の株式会社が、オランダの「東インド会社」だからです(※2)。なお、今回の記事のテーマは、イギリスの東インド会社です(以下、単に東インド会社というときはイギリスの東インド会社のことを指します。イギリスの東インド会社も1662年にはイギリス初の株式会社に転換しています)。

 まず、当時の世界状況と、東インド会社とは何か、について簡単に振り返ります。15世紀の大航海時代の後、ヨーロッパの主要国は航海ノウハウと火薬の力でどんどんと植民地を作り、天然資源や特定の商品を(貿易という名目で)収奪していきました。その主体は、勅許会社という国が特許状を付与して許可した株式会社でした。その代表的なものが東インド会社です。国公認の巨大総合商社、のようなものをイメージしておけば大丈夫です。

 東インド会社は、東インド(≒インド亜大陸や東南アジア)の貿易独占権を認められ、初期には東インド(インドネシア)の香辛料貿易を目指しました。が、アジア海域の覇権をめぐるスペイン、オランダ、イギリス3国の争いは激しく、1623年にモルッカ島アンボイナでオランダによるイングランド商館員の虐殺事件(アンボイナ事件)が発生。それ以降、イギリス勢は徐々に活動の重心をインドに移していきました。

 活動地域だけでなく業務内容も変わります。当初は貿易を主業務としていましたが、18世紀を通じてインドの植民地統治機関へと変貌します。徴税や通貨発行を行い、法律を作成して施行し、軍隊を保有して反乱鎮圧や他国との戦争を手掛ける。日本で言うと、国から多くの特権を得た総合商社が、日本の植民地支配を代行している(自前の軍隊を持って徴税や司法を担っている)状況です(※3)。

 東インド会社は特許状により、以下のような様々な特権が認められていました。

・東方(インドや中国)での貿易独占権

・交易品購入のためにイギリス国内からの銀の持ち出し

・貿易活動を守るための軍事権

 さらに特許状は、会社運営の内部組織まで言及しています。具体的には、株所有者の集まりである株主会(Court of Proprietors や General Court あるいは単に Court)、株主会で選ばれる取締役(directors)、各取締役が代表する小委員会(subcommittee)、そして取締役会で選ばれる総裁(governor)というように、現代でいうところの「ガバナンス(企業統治)」の在り方が規定されていました。

 知れば知るほど不思議かつロマンあふれる会社なのですが、以下の堀江(2007)の記述を読むと、今なお歴史学にとって「東インド会社とは何だったのか」というのが論点であることが分かります。

 ところで、アジア最強の武力を保持し、イギリス本国より多額の税収入を得て、多くの人民を支配し、企業家たちがその株式を持ち合い、しかもそれが毎日売買されていた政府となると、このような権力機構に東インド会社という名称をつけることが相応しいかどうか迷うところである。それほど東インド会社の権限は大きく、またその利害関係は複雑であり時代とともに変遷した。加えて、単に「国家イギリスの植民地経営の請負機関」という定義では把握できない、実に不思議な組織体でもあった。但し、東インド会社が南満州鉄道会社(満鉄)のような国策植民会社であったとの解釈も、イギリス政府と東インド会社の関係を見ていくと正しくない。

東インド会社はサステナブルか:バークの批判

 イギリス東インド会社は、1757年にフランスと組んだインド現地勢力に勝利(プラッシーの戦い)すると、1765年にインドを支配していたムガル皇帝からベンガルを中心とする地域の徴税権(diwani)を認められました。先ほど説明した、東インド会社がインドの統治機関へと変貌するきっかけです。

 東インド会社は、ベンガルの徴税権を得たことで、対価となる銀を本国から送金することなく、現地商品を買いつけることができるようになりました。貿易のコストが大幅に減ることになったのです。

 イギリス本国はこれを「天恵」と考え、1767 年、ベンガルにおける東インド会社の権利を認める見返りとして年40万ポンドを国庫に上納する約束をさせました。が、実際には上納金をもたらすどころか、数年後、東インド会社は軍事費や徴税業務の負担、貿易の不振などから経営危機に陥り、政府に公的資金による救済を求める羽目に陥りました。

 東インド会社を批判する動きが盛り上がり、1773 年にはノース内閣のもとで「規制法」が制定されるなど、東インド会社に対するイギリス国家の介入が始まります。この反・東インド会社の空気がイギリス本国で高まっていた18世紀後半、東インド会社を強く批判し、その社会的責任について語ったのが、あの「保守思想の祖」と言われるエドマンド・バーク先生です。

 東インド会社は株主に多くの利益を分配していましたが(配当利回りが1771年になんと12.5%)、それは、搾取されるインド人の犠牲の上に成り立っていました。この東インド会社の素行に対して、バーク先生がお怒りとなり、こんなことを宣言されています。

イギリス人の1ルピーの儲けは、インド人にとっては永遠の損失を意味するのである。われわれが搾取した人々のために慈善基金を作るのではない。われわれの罪の意識を消し去り、われわれの行いがインドのためになったことを証明するために、安い原材料や強制労働力を使って記念となる建造物を作り上げたのでもない。イギリスは教会、病院、宮殿や学校を建設しなかった。橋、高架道路、航行路、貯水池をも作らなかった。イギリス以外のさまざまな侵略者は、国であれ慈善事業であれ、何らかの記念建造物を残していった。今日もしイギリスがインドから撤退すれば、イギリスがインドを統治していた痕跡を残すことができない。インドはオランウータンや虎といった野生動物が治めていた自然国家のようにしか思われない。

出所:エイミー・ドミニ(2002)

 つまり、今風に言えば「インドにとっての課題解決になるようなことをなさずに、一方的に利潤を搾取したままインドから撤退するのは、文明社会のやることではない。猿だ」(意訳)という痛烈な批判をしたのです。

 その後、東インド会社の特権はどんどん縮小されていきました。1813年にインドにおける独占貿易が終了し、1833年には中国との独占貿易も終了。1857年には東インド会社の傭兵であるシパーヒーが反乱(インド大反乱、シパーヒーの乱)を起こしたことから、イギリス政府は1858年に「インド統治法」を制定し、東インド会社を解散、インドはイギリス政府が直接統治することになります。東インド会社の終焉です。

最終的には、議会は会社が株主の利益を極大化する義務よりも、不文律ではあるが良識のルールが優先すべきであると認めて、会社の勅許を取り消し国王の直接管理の下に置いた。

出所:エイミー・ドミニ(2002)

 搾取した利益の上に成り立つ東インド会社のインド経営は、現地住民の大反乱を引き起こしたため、決して持続可能なものではなかったといえます。

 話はそれますが、エドマンド・バーク先生は、フランス革命にキレ散らかしたことで有名です。1790年の『フランス革命の省察』という本で、名誉革命とフランス革命を比較し、理想論先行で始まったフランス革命がその後、血まみれの結末をたどることを予想しています。彼の思想の根幹にあるのは、人間の知力は、祖先が積み上げてきた叡智、つまり古来からの制度や慣習に及ばないという考えで、「理性主義」「自由主義」「平等主義」に批判的です。また、変える必要のないものは変えるべきでない変える必要があるときに変えればいい、という姿勢は後世の「保守主義」に引き継がれ、『フランス革命の省察』は保守主義のバイブルとまで言われています。

アダム・スミスと国富論

 実は、同時期に東インド会社を批判した有名な人間がいます。古典派経済学の祖であるアダム・スミスです。彼のもっとも有名な著作の一つである『国富論』(1776年出版)も、東インド会社への批判が書かれています。スミスは、リスクが高く巨額の元手が必要な事業には、その挑戦に報いる方法として期間限定で独占貿易権を与えることは自然だ、としつつも、設立から170年以上経過した東インド会社を、以下の点で批判します。

・独占貿易権を与えると、二つの弊害が発生する。ひとつは、自由貿易で安くなるはずの商品が高い価格で売られること、ふたつは、収益性の高い適切な事業から多数の国民が排除されること

・東インド会社はインドの主権者、統治者であるにも関わらず、インドの国益を損なう短期的な利益追求行動をとっている。自分たちの主要な事業は貿易だという商人的発想から、海外で売るためにインドの商品を安く買いたたき、また海外の商品をインドで高く売ることを優先している

・職員の不正蓄財が横行しやすい(ネイボッブというインドで財を成した成金が社会的に当時批判を浴びていた)

 そして、国富論(大河内一男訳版)において、東インド会社の存在が引き起こす「自由貿易・自由競争の阻害」と、その「統治者としての責任欠如」を批判します。

ベンガルその他の東インドの大ブリテンの植民地において、巨大な財産が突如として容易に獲得されるという事実は、これらの衰微した国々では、労働の賃金が非常に低いと同時に、資本の利潤が非常に高いということを説明してくれるものだといってよい。
これら商事会社の株主の大多数は、抗しがたい社会的な原因から、自分の臣民の幸福と悲惨、自分の領土の改良と荒廃、自分の行政の栄光と汚辱について完全に無関心であり、また、必然的に無関心たらざるをいないのであって、ここまで無関心な主権者は、いまだかって他にいなかった。

 スミスの主張を要約すれば、私的な領域における関心は、必ずしも国家の統治のような公的領域の関心に結びつかず、むしろ私的な利害関心にとどまってしまう傾向があり、株主や従業員といった会社関係者の関心が公共的な領域に広がらないのは仕方ない。なので、そもそも企業に主権者として統治させるべきではなかった、というものです。

 スミスの国富論は、「(神の)見えざる手」という歴史に残るレベルの隠喩を生み出したこともあって、あらゆる規制を排したレッセフェール(自由放任主義)を推進した文献と受け取られることが多いです。が、彼のもう一つの著書『道徳感情論』も考慮すると、どうもそうではない、というのが最近の研究動向のようです。ここについては、国富論のWikipediaの記述がよくまとまっています。

この「見えざる手」の背後にある思想は、人々が利己的に行動することこそが、市場を通じて公益の増大にもつながるということである。(中略)ただし、スミスが市場に無条件で全てを委ねる自由放任主義(レッセフェール)を礼賛したという理解は正しくない。スミスが説く利己心はあくまでも「同感」とセットになって「正義の法」に反しないものであり、まったくの好き勝手に振る舞うこととは異なる。スミスの考えに沿えば、独占などが行われていないフェアな市場で自己の利益を最大化するには、他者の批判を招く行為に出て今後の取引に差し障ることは避けようとするはずであり、好き勝手に振る舞うことは、むしろ自己の利益を最大化することにはつながらないのである。そもそも、「自然的自由」「自由競争」といった表現ならばスミスの書き物には頻出するが、「自由放任」という表現は一切登場しない。
しかしながら、スミスの「見えざる手」は曲解され、『国富論』の初期の擁護者となった新興の資本家たちは、レッセフェール以外のスミスの主張を無視した。そして、人道的な政策(児童労働の禁止など)に反対する資本家たちまで、政府によるあらゆる規制に反対するものとして、スミスを引用する始末であった。

 悲しい話です。

 とはいえ、東インド会社という最初期の株式会社の暴走を見たバークとスミスという偉大な思想家たちは、200年以上前に、企業の社会的責任を考えていことは間違いないでしょう。


※1:この本では、紀元前262年、古代インドのアショカ王は戦争を放棄し、非暴力の仏教を国教とする意図で広範な公共事業を実施したところから、CSRを語っています。が、本稿では割愛。仏教徒は肉食を避け、イスラム教徒はアルコールや豚肉を避けるように、信仰に基づいた消費、投資の忌避という概念は古くからあったとされます。

※2:というのが有名なんですが、世界最初の株式は1553年にイギリスで設立された合資会社「ロシア会社」で発行されたものといわれています。ただし、株主は無限責任を負う「ジョイント・ストック・カンパニー」であり、現代的な株式会社とは本質的に異なっていたとされます。現代につながる株式会社の誕生は、1602年のオランダ東インド会社を待つ必要があります。

※3:東インド会社には職員養成用の大学もありました。1806年に設立された東インド会社の行政職に就く者たちの教育訓練施設、ヘイリーベリー・カレッジです。もっとも、1857年にインド大反乱が起こると、イギリス政府は1858年1月にインドの直接統治に乗り出し、カレッジは閉鎖されました。

<参考文献>

羽田正(2017)『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』、 講談社学術文庫

堀江洋文(2007)「イギリス東インド会社の盛衰 (北・西部インド総合研究特集)」『専修大学人文科学研究所月報』(230), 87-124

アダム・スミス著、大河内一男監訳(1978)『国富論』Ⅰ~Ⅲ、中公文庫

エイミー・ドミニ著、山本利明訳(2002)『社会的責任投資』、木鐸社

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