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I/EYE(アイ)をめぐるテクノロジーとリアリティの条件──スザンヌ・ケネディ&マルクス・ゼルク/ロドリック・ビアステーカー『I AM(VR)』評

清水知子(筑波大学准教授)
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 ドイツの演出家スザンヌ・ケネディの『I AM(VR)』に足を運んだのは、東京が二度目の緊急事態宣言下にあった2021年2月17日のことだった。

 これまでベルリン・フォルクスビューネ劇場とミュンヘン・カンマーシュピーレを拠点に『ウーマン・イン・トラブル』(2017)、『バージン・スーサイド』(2017)、『三人姉妹』(2019)を手がけ、ポストヒューマン演劇の旗手と言われる彼女にとって、本作は初のVR作品である。

 VR(ヴァーチャル・リアリティ)という言葉は、仮想現実と訳されることが多い。だが、仮想と訳されたとたん、世界は現実/仮想という二元論に回収され、VRの世界は「現実」の外部に「別」に存在する人工的に仮構されたものにすぎないという誤解を与えかねない。ここではむしろ、ヴァーチャルを「潜在的」なものとして、つまりアクチュアルに実現される一種の可能態として捉え直したい。

 というのも、私たちの日常世界を支える「リアリティ」は、じっさいにはより多くの複数の不可視な情報/物質との関係性のなかで重層的かつ多義的に構成されているからだ。VRはその多様な現実の一環であり、私たちの脳は、外部世界、自身の身体、そしてテクノロジーを通して可塑的に変容しているように思われる。

 VRという言葉を最初に使ったのは、フランスの劇作家アントナン・アルトーである。彼は『錬金術的演劇』(1932)というエッセイのなかで、演劇と錬金術の奇妙な「本質的同一性」を見出した。どちらも「潜在的な技芸」であり、「それ自身のうちに目的も現実性ももってはいない」「分身double」だという。ここでの「分身」とは、「生気のないコピー」に成り下がった「面白みのない日々の直接的現実」ではない。アルトーにとってそれは、何かの複製や人物の分身といった形態的類似ではなく、むしろ亡霊のようなもの、目に見えないもの、隠されたものにかたちを与え、眠っている私たちの身体感覚を覚醒させるものである。いわく、演劇とは、「危険で典型的なもうひとつの現実の分身であり、その分身にあっては、諸原理がまるでイルカのように顔をのぞかせてはたちまち海の暗闇のなかへと帰ってしまう」と。[1]

 その後、VRという言葉は、今日「VRの父」と呼ばれるアメリカのコンピュータ科学者ジャロン・ラニア(VR企業であるVPL Researchの創設者)によってITに援用され、幅広く知られるようになる。ラニアも指摘するように、VRのキャンバスは外部世界ではなく、私たちの身体そのものだ。自分の肉体が存在する場所とは異なる、人工的環境を、360度開かれた視界のなかで、自身の視点から体験する。まるでその場にいるかのような強度な臨場感に没入する、出来事が生じる現場である。[2] だからこそ、日常的環境とVRによる人為的環境とを媒介(メディエイト)するインターフェイスは、私たちの身体そのものなのだ。

 だが、ここでいう身体とは何か。というのも、VRの世界に没入しているのは私たちの脳であり、端から見れば、肝心の身体は日常的生活世界に置き去りにされ、まるでもぬけの殻のような無防備な容れ物と化しているように見えるからだ。

 デカルト以来、西欧近代の哲学は人間の精神と身体を二分化し、人間の本質として精神に重きを置いてきた。じっさいウィリアム・ギブソンの『ニューロマンサー』、ハンス・モラヴェックの『電脳生物たち』、さらには映画『トランセンデンス』など、人間の意識が情報として身体から抽出されコンピュータへとダウンロードされる「ポストヒューマン」な世界はこれまでにも数多く描き出されてきた。

 アメリカのメディア批評家キャサリン・ヘイルズは、情報/物質、意識/身体と二分され、序列化された脱身体的な思考様式としての「ポストヒューマン」という概念に警鐘を鳴らす。しかし同時に彼女は、情報が個々のローカルな場所、時間、生理、文化のなかで成立する身体化(エンボディメント)に目を向け、従来の人間像を批判的に捉え直す契機として「ポストヒューマン」という概念を再考している。[3]

 他者との接触回避、身体的距離の確保が自己と社会の存続を意味する、という、いささかパラドクシカルな世界に突入して、私たちはすでに二度目の夏を終えつつある。こうしたなかにあって、私たちは、パンデミックを通して、いかに既存の芸術を再考し、新たな創造の形式を創出することができるのだろうか。『I AM (VR)』は、まさしくその問いへのひとつの応答のように思えた。

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 さて、ゲーテ・インスティトゥートに到着すると、広い講堂にはいくつかの小さな個室が設置されていた。外部が遮断された個室で、ヘッドセットを身につけると、〈私〉がジャック・インしたのは、深い地下トンネルのような、あるいは産道のような細い導管のなかだった。足下には水が流れ、耳元で複数の人間が無数の問い――「あなたは誰?」/「ここはどこ?」/「兄弟との関係は?」/「パンデミックはどう終息を迎えるの?」/「ブラックホールとは?」――を囁く声が聞こえる。小さな乗り物に乗って水面を進むと目の前の扉が開き、壁に掛けられた小型スクリーンに「ようこそ、あなたのゲームへ」と文字が映し出された。

 ゲームが始まる。どうやらこれは〈私〉のゲームで、いくつかのルールがあり、すべては〈私〉の想像力にかかっているらしい。次の扉が開き、不穏な音楽が流れる。目の前には、グーグルのAIプログラム「Deep Dream」の幻覚的画像を想起させる奇妙な色調に彩られた未知の空間が広がっている。いくつもの部屋があり、通路には街灯が灯っている。どこかの地下空間のようだ。

 そこには、〈私〉と同じようにヘッドセットを付けた人体のNPC(ノン・プレイヤー・キャラクター)がいた。仰向けになって床に寝転ぶ者もいれば、じっとあぐらを組んでいる者もいる。ヘッドセットから聞こえる、誰かが呼吸をしている気配が生々しい。瞑想という言葉がしっくりくる静的環境に、〈私〉は息を呑んだ。

 辺りを見渡していると、ヘッドセッドから再び「声」が聞こえてきた。〈私〉は神託を授かるためにここいて、預言者に会う準備をしなければならないという。この空間にある部屋はどれもそのための「準備室」だった。

 ほどなくして、あぐらを組んだNPCがそのままの体勢でスルスルと向かいの部屋に移動し、〈私〉は部屋を選択するよう尋ねられた。逡巡しながら1つの部屋に目を向けたが、〈私〉にはまだこの部屋に入る準備はできていないと告げられる。別の部屋に視線を移すと、音調が変わり、〈私〉はその部屋に向かって移動し始めた。

 ドアが開く。小鳥がさえずり、太陽の眩しい光が木々を照らす。〈私〉はどこかの森のなかにいるようだ。絵に描いたような美しい自然に囲まれ、周囲を見渡していると、前方からドローンが飛行してきた。無人で飛行するこの物体は、「身体」をもたない幽霊のように空を浮遊している。ドローンはどこから来たのだろうか。そう考える間もなく、「座って楽にしろ」、「呼吸をしてリラックスせよ」と「声」が聞こえ、〈私〉は、言われるがまま、風に揺れる草をみつめ、息を吸い、そして息を吐いた。

 つぎに〈私〉は火を思い浮かべるように指示された。火について考えようとすると、森の一部に小さな炎が立ち上がった。「声」の主は、終始どこかから〈私〉を観察しているようだ。燃える小さな炎を前に、「これを生みだしたのはあなたですか。ふーむ」と訝しそうにつぶやき、深い溜め息を投げかける。溜め息は、この空間に足を踏み入れてから言われるがままに行動している従順な〈私〉への失望のようだ。

 たしかに、〈私〉はこのVR空間に入ってから、何も思考することなく、どこか遠方から聞こえてくる身体なき「声」に従属していた。限られた選択肢と独自に設けられたルールに従って、「声」の指示に身を委ねていた。すると再び「声」が聞こえ、〈私〉はまた言われるがままに素直に息を吸い、息を吐いた。「上出来です。あなたはこれが得意なようです」と「声」は言う。〈私〉は、この褒め言葉が皮肉に満ちたものであることを感じながらこの部屋を離脱する時間を迎えた。

 部屋の外に出ると、どぎついピンクと紫の天井が開き、その隙間から空が見えた。夕暮れを思わせる薄暗い空に濛々と大きな雲がたなびき、激しくうねっている。

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 〈私〉は再び移動し、不可解な模様に彩られた空間にいた。重厚な扉が開き、なかに入ると壁に画像が映し出された。Gパンにピンクのタンクトップ姿の白人女性が部屋の片隅にある戸棚から何か取り出し、部屋を出て行った。するとバイクに乗った一人の人物がこちらに向かって突進する映像が映り、さらにマイクのテストを繰り返す国際会議場が映し出された。そして、白いカーテン越しに片手が差し出され、白い衣を纏った白人男性人と握手を交わす。どこか面会不能なコロナ禍の現実を想起させる光景だ。まるでテレビのチャンネルをザッピングしているようであり、誰かの夢の中に紛れ込んでいるようでもある。すると不意に、「あなたは夢のなかに浸っている。まるで機械のように」という「声」が聞こえ、映像はマスクで顔を覆った人々が行き交うヨーロッパらしき街の風景に切り替わった。

 この部屋を立ち去り、再び空を見上げると、黙々と大きな雲が動き続け、虚空の彼方からドローンが近づいてきた。一台、もう一台。気づけば何台ものドローンが〈私〉に接近してくる。ドローンの時代とは無人化の時代だ。この空間には、〈私〉を見つめるドローンのカメラの目と、ジャックインされた〈私〉の目のみが存在しているようだ。

 やがてドローンは虚空へ消失し、〈私〉は最後の部屋へ向かう準備ができていることを告げられた。

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 さて、エレベーターへ移動すると、〈私〉の身体は、効果音とともに、恐ろしい速度でぐいぐいと上昇していった。途中、タイムワープしたかのように、土星らしき別の惑星が目に入るが、エレベーターはさらに上昇し、小さな光が射しこむ上空の穴を突き抜けた。すると、〈私〉を待ち構えていたのは、未知の惑星を思わせる場所だった。

 目の前には、複数の大きな〈目〉を瞬きさせる奇妙な球体が存在し、どこからか息を吐く音が聞こえる。砂漠のような一帯に、巨大な岩がごろついている。とはいえ、かつて存在したであろう文明の痕跡を感じさせる遺物らしきものも見受けられる。

 奥の方に階段らしきものがあり、その先にさらに別の惑星らしきものが見える。月が2つあるかのように、惑星が2つ浮かぶ。ふいに〈私〉は、自分を運んできた小さな乗り物から一歩足を踏み外すと、この惑星から真っ逆さまに落下して死ぬのではないかという恐怖に襲われた。〈私〉はすでに人為的に構築されたこの光景の内部に完全に定位された「身体的存在」だった。だから、足下に広がる広大な惑星的空間に転落死する恐怖を回避すべく、乗り物の外に足を踏み出すことができなかった。

 恐怖に包まれながら想起したのは、哲学者スラヴォイ・ジジェクがよく引くフロイトの『夢判断』の一節だ。[4] 夢の中に全身炎に包まれた息子が近づいてきて咎めるように父親にこう呼びかける。「お父さん、ぼくが燃えているのが見えないの?」。父親はすぐに目を覚まし、ロウソクが倒れ、息子の棺を覆っている布に火がついているのを発見するという夢である。

 フロイトによれば、夢の機能は、夢を見ているひとの睡眠を引き延ばすことにある。つまり、父親が眠っているときに嗅いだ煙は、燃えている息子の夢のなかに組み込まれ、結果として彼の睡眠を引き延ばす。父親は生きている息子に会いたいという願望充足のために眠りを継続させるが、外的刺激(煙)が強すぎて夢のシナリオに包摂できず、目を覚ましたというわけだ。

 だが、事態はそれほど単純なのだろうか。ジジェクはむしろ、その逆ではなかったかと指摘する。父親が夢のなかで遭遇したのは、彼を責める身の毛のよだつような息子の亡霊であり、それは外的な現実よりもはるかに耐えがたいものだった。だから彼は目を覚まし、息子の死に対する耐えがたい罪責感からなるトラウマを回避するために、外的な現実へと逃げ込んだのである。

 ここにおいて、夢と現実の関係は逆転する。つまり、夢やVRという装いのもとに現れるものは、ときに隠された真理であり、現実よりも現実的リアルだ。この真理の抑圧こそが、私たちが日常的に依拠している社会的現実の基盤となっているというわけだ。とすれば、現実とは、夢を維持することができないひとのためのものであり、現実的なトラウマとの邂逅を避け、「夢を見続けるため」の場所なのである。

 さて、ここまで来て、〈私〉は預言者に会う準備が整ったと告げられる。ただし、すでに〈私〉を社会的に徴づけるもの――家族、友人、過去、職業、そして予想される人生の道筋――はすべて剥奪され、〈私〉はただ「存在する」だけだという。

 虚空に浮かぶ巨大な〈目〉は生々しく、時折瞬きをしながらじっとこちらを見つめている。人間の無意識を描き出すシュルレアリスムの世界に入り込んだかのようだ。〈目〉は〈私〉に質問を聞かせてほしいと言う。〈私〉はこれまで沈思してきた問いを伝えるべきかどうか、しばらく黙考していた。すると「あなたがまだ知らないことで、私があなたに伝えられることなど何もないのです」と告げられた。

 突如、周囲は一変し、薄暗い霞のかかった空間に〈目〉が浮かび上がった。そしてすべては霞のなかに消失していった。PLEASE TAKE OFF THE GLASS.  PLEASE TAKE OFF THE GLASS……〈私〉のゲームに終わりがきたようだ。

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 ヘッドセッドを外して辺りを見回すと、暗い個室にいる自分に気づく。そうだった。私はずっとここにいたはずだ。目の前の光景と「声」に「アテンション」を簒奪されたVR時間は、およそ30分とは思えぬほど凝縮され、戸惑いすら覚えた。
 果たして、このVR空間に「転送」された〈私〉(私の意識)のこの一連の旅路は、「身体という牢獄」から解放されていたのだろうか。あるいは、幻想に封じ込められていたのだろうか。

 私たちの日常的な生活世界は、ツイッター、メール、ラインの通知にひっきりなしに「気散じ」の誘惑に惑わされている。「24/7」(1日24時間、週7日)=「眠らない社会」は、私たちから眠り、夢、幻想を剥奪し、日常世界における私たちの知覚を単層化しながら社会的現実を構築する。

 だが、ひとたびVRの世界にジャックインすると、モノローグにも似たリアリティのなかで、〈私〉の麻痺していた知覚は複数化され、拡張されて、既存の境界がグラグラと揺さぶられる。それは、「他に道はない」と言われる閉塞した社会的現実に対して、「現実」をめぐる概念の多層性と多義性を感知させ、今とは異なるビジョンを描くためのレッスンと言えるかもしれない。逆にいえば、VRのなかの〈私〉と、今ここに存在する私のあいだに浮上するこの間隙こそ、これまで当然のものとして見過ごされてきた目の前の閉塞した「現実」が開かれる瞬間ではないだろうか。

 もちろん、VRは軍事をはじめとする暴力装置に豹変し、その未来は必ずしも明るいものだけでない。だが、ここで改めて想起されるのは、最適化を得意とするAIと違い、VRは究極的には人間に関するものであり、だからこそアルトーが夢見た演劇を観ることができると述べたラニアの言葉である。

 映画『マトリックス』において、主人公ネロが赤い薬と青い薬が差し出される場面を思い出そう。どちらを選択し、どのような価値観を築き、いかなる社会を思考することができるか。その応えは、これからの私たち自身の選択にかかっているというわけだ。

 こうしてみてくると、『I AM(VR)』の潜在的な時空間とは、私(I)と、〈私〉の〈目 eye〉、ドローンの〈目〉、そして預言者の〈目〉が「身体なき器官」となって集う、一つのプラットフォームではなかったか。その時空間は、「隔離」の続くコロナ禍において、自己喪失の境地に陥り、世界との関わりをなくしてしまう「孤立」ではなく、自己との対話を続ける透徹した孤独こそ、世界への愛を開くレッスンであることを思い起こさせる。この意味で、『I AM(VR)』は、複数の〈I=EYE〉(私=目)の共演を通じて生成する、サイエンス/セルフ/スペキュレティヴな3つの「S」からなるフィクションとしての「SF」演劇であったように思われる。


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[1]  アントナン・アルトー『演劇とその分身』所収、鈴木創士訳、河出文庫、2019年
[2] Jaron Lanier (2017) “A Conversation With Jaron Lanier, VR Juggernaut,” Wired, November 17. https://www.wired.com/story/jaron-lanier-vr-interview/
[3] N. Katherine Hayles (1999) How We Became Posthuman, The University of Chicago Press.
[4] スラヴォイ・ジジェク『ラカンはこう読め!』鈴木晶訳、紀伊國屋書店、2008年
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清水知子(しみず・ともこ)
愛知県生まれ。筑波大学人文社会系准教授。専門は文化理論、メディア文化論。著書に『文化と暴力ー揺曳するユニオンジャック』(月曜社)、『ディズニーと動物−王国の魔法をとく』(筑摩書房)、『コミュニケーション資本主義と〈コモン〉の探求』(共著、東京大学出版)、訳書にジュディス・バトラー『アセンブリー行為遂行性、複数性、政治』(共訳、青土社)、ネグリ/ハート『叛逆』(共訳、NHK出版)など。

©︎シアターコモンズ ’21/撮影:佐藤 駿(公演風景)




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