親になるということ、とプリン
子どもが生まれ親になって経験できる素晴らしいことはたくさんある。だけどその中でも一番、私にとって衝撃的だったことがある。
それは、自分自身の人生において、自分が二番手になるということである。自分自身よりも大切な存在ができるということだ。
私の人生において主役は私のはずだった。というか誰が主役とかそんなこと考えたことすらなかった。なのにやってきたその小さな存在を前にすれば、主役のはずの私は簡単に二の次、三の次になってしまった。彼らに比べれば自分なんてとるに足らない。
人生のターニングポイントとなったりそれまでの価値観や優先順位が書き換えられるような出来事はほかにもあっても、自分とは別の人間が自分のなかにどっしりといすわり、自分が二の次になるなんて経験はなかなかできない。そんなことが起きるなんて想像すらできなかった感覚で、子ども以前・以後の変化のなかでも一番おおきくて根本的な変化じゃないだろうか。
親になるということは、ひととして成長するとかそういうものでもないと思う。成長というとこれまでと同じ軸の上でレベルアップする感じがする。親になるというのはむしろ、もう枠というか入れものからして別物になるみたいな感じだと私は思う。そうか、私は親という生き物になったのか。
おまけにこの世界にやってきたばかりの子どもというのは、かわいい上に弱いときている。守らなくてはいけない。大切な大切な弱く小さな生き物を、私は全身全霊にかけて守らなくてはいけない。
この子たちを守るためなら私はこの命を差し出すこともためらわない。いつそんな状況になっても、一瞬たりとも迷わないだろう(いや、ならないようには一応祈ってるけど)。
なのにどうだろう。今、冷蔵庫にプリンがひとつ残っている。彼らのためならこの命を差し出すことになんのためらいもないのに、このプリンを差し出すことはためらいまくっているのはなぜだ。
子どもたちよ。じゃんけん、な?
(写真は2016年夏の子どもたち。すぐに大きくなるなぁ)