芸術とジェンダー~ブラームスのピアノ協奏曲の演奏をめぐって~
本記事は大学院修士課程在籍時(2019年)に執筆した課題レポートを再構成したものです。ジェンダーに対する認識もまだ不十分で、文章自体も当時ならではの未熟でまとまりのないものではありますが、改めて読み返してみると視点が面白かったので公開することにしました。
はじめに
今回はジェンダーの視点から、この作品と演奏家との関係について考えたい。昔から「長大で、重厚で、女性が演奏するのは難しい」といわれてきたブラームスの二作品だが、あらためて音源を探してみると、あくまで少数ではあるが、女性による演奏を見つけることがある。そして女性の演奏が男性に劣っているということは決してなく、むしろ女性ならではのアプローチによる演奏がとても新鮮で素晴らしいため、もう少し掘り下げて考えてみたいと思い、このテーマを選択した。
ブラームスのピアノ協奏曲についての概要
ピアノ協奏曲第1番 ニ短調作品15 は、1857年に書き上げられ、1859 年1月22日にドイツ・ハノーファーにて、ブラームス自身の独奏ピアノ、ヨーゼフ・ヨアヒムの指揮によって初演された。ピアノ協奏曲第2番変ロ長調作品83は1881年に完成し、同年11月9日、ブラームス本人の独奏、アレクサンダー・エルケルの指揮によりブダペストで行われた。全体的に不評だった第1番とは異なり、第2番は各地で大成功を収めた。これらの作品の持つ重厚さに加え、初演時にブラームス自身が独奏を務めたことも、「大柄な男性が弾く作品」といったイメージを強めることになったと考えられる。
また、この二作品を語るうえで欠かせないのは、ピアノをまるでフルオーケストラのように扱い、協奏曲というよりも交響曲のようなつくりになっていること、また圧倒的な演奏時間の長さである。各曲ともに50分程度あり、他のピアノ協奏曲とは比べ物にならない。作品における技巧においても、重音の多用や右手の親指と薬指でオクターヴ、小指で一つ上の音を続けて演奏するという「ブラームスのトリル」など、作品自体は華やかではないものの難しい技法が散りばめられている。精神的にも技術的にもタフなピアニストでないと弾けない作品であることは間違いないだろう。
作品と演奏家 その1 —CDの分類から読み解く—
この二作品を演奏しているピアニストについて調査した。大手ネット通販サイト Amazon.jpで購入できる音源から、検索結果上位(当時)に挙がった50人のピアニストを選び、第1番、第2番、もしくは両作品のいずれか、そして演奏者の性別を分類した。なお、割合の少なかった女性については録音した年を明記している。
表からも分かるように、列挙した50人のうち男性は45人、女性は5人で、9:1の割合となる。少ない割合である女性演奏者の録音時期に関して、「現代に近づくにつれて録音の数が増えてくるのではないか」との予想をしていたのだが、この結果をみると1974年のウーセの録音から約10年に1度のペースで録音され、CDが販売されていたことになる。また、ウーセ以前にもこれらの協奏曲を取り上げた女性演奏者がいることも、当然ながら考えられる。とはいえ、あくまで女性の割合が圧倒的に少ない事実に変わりはない。フランスのピアニスト、エレーヌ・グリモーは第1番のみを1997年に、全曲を2012年に録音している。全曲録音のCD発売後に来日した際の雑誌のインタビューでは「もし生まれ変われるならブラームスになりたい」と語っているほどにブラームスを愛している彼女にとっては、女性にとっては弾きづらい、などといった次元の話は軽く超えているのだろう。また、「ピアノの女王」と呼ばれるアリシア・デ・ラローチャは長身ではなく、手の小さいことでも知られているが、豊かな気品と、母性をも感じさせる音楽性を持つピアニストである。手の小ささを感じさせないほどの素晴らしい技術を彼女が持っているとはいえ、第2番を録音し、また公開の場でも多く演奏しているという事実は、「性別やそれに伴う体格によって弾けないものはない」ということを実感させられる。
作品と演奏家 その2 —第8回浜松国際ピアノコンクールでの例—
世界中で演奏されているこれら2つの協奏曲は、国際コンクールの課題曲リストの中にも必ず入っている。最近でいえば、2018年11月に行われた、第10回浜松国際ピアノコンクールの本選において、日本の安並貴史が第2番を演奏して6位入賞を果たしている。実はそれから6年ほどさかのぼり、第8回の同コンクールの本選において、第1番を2人、しかも韓国人男性と日本人女性が演奏することになるという「珍事」が起きた。先に結果を述べると、第2位に日本の中桐望、第5位に韓国のキム・ジュンとなっている。当時この結果について、驚きをもって報じられていたあたり、やはり男性優位な作品だと考えられていることがわかる。毎度コンクールの取材を行っている月刊ショパンに、音楽評論家の東条碩夫による各演奏者の講評が掲載されているので引用したい。韓国のキムについて
は、「エネルギッシュで豪快で骨太なタッチによりスケールの大きな演奏をつくり出していた。第1楽章では若きブラームスの情熱をいっぱいに表現していたが、後半のふたつの楽章では、その力感に比して若干単調な演奏にとどまったのが惜しい。(中略)審査委員の中には、彼の演奏がやや力に頼りすぎる傾向なきにしもあらず、と感じた人もいたようである」とある。また中桐については、「実は本選前の下馬評では、やはりこの曲を弾くキム・ジュンがかなり豪快な演奏をする人なので、そのすぐ後に続いて同じ曲を弾くことになっている彼女は少し不利になるのではないか、と囁かれていたのである。ところがどうして、彼女は『自分には自分のやり方が』とばかり、キムとは全く逆に、極めて抑制したテンポと表情でソロを開始したのみならず、弱音の個所では大きくテンポを落として、ひとつひとつの音を慈しむように、繊細な美しさをも出して弾いていった。第2楽章での沈潜したモノローグ的な演奏も、みごとだった。こういう独創的な演奏が、彼女に対する審査委員たちの評価を高めたのではないかと思う」とあり、キムとは異なったアプローチが功を奏したことがわかる。私は当時、本選の様子をネットで視聴していたが、キムのエネルギッシュさに圧倒された一方、ブラームスの繊細な部分に光を当てた中桐の美しい音楽に魅了され、ある意味「体格のいい男性」には思いつかないであろう視点による彼女の演奏は、実に新鮮に感じたのを覚えている。ちなみに、そのアプローチの異なる第1番を連続で指
揮した井上道義は、「聴いている方も相当大変だっただろう」と、客席に向かって拍手をしたのが印象的であった。
おわりに
超難曲として知られるこれらの協奏曲は、身も蓋もないことをいえば、男女関係なく、弾ける者は弾けるし、弾けない者は弾けないのである。当然、体格の違いがあるので、女性の場合は男性以上に何らかの工夫を凝らしている場合が多い。グリモーは知的で静的な演奏スタイルによって、ブラームスの深みを引き出しており、ラローチャは音楽における自然な呼吸と安定感のある曲の運びによって説得力をもたらし、中桐はブラームスらしい重厚さとともに持ち合わせた音楽の繊細な部分にフォーカスし、美しいppを響かせ歌わせることに心を注いでいる。今の時代、世の中のほとんどのピアノ作品に性別は関係なく、むしろ女性には物理的に工夫を凝らさざるを得ないという意味で、新たな表現方法を見つけ出す可能性を男性以上に秘めているともいえる。「男性だから弾ける曲」という思い込みはもう古い。これからの時代、「女性にとって不利な作品」というレッテルは、男性が女性の持ち得る可能性を恐れている表れなのかもしれないし、女性にとっては作品に取り組まない口実となりかねないということになるのだ。そう考えると、男女の差がなくなること(この場合では同じ作品を演奏すること)は、ある一方では喜ばしい流れであり、またある一方では逃げ場のなさに苦しさを感じることになるのかもしれない。力ずくだけが評価されるのではなく、本当の意味での「技術・才能・柔軟な発想力のある演奏家」のみが残っていける時代になってきている。それは彼らにとって、生きやすく、また生きにくい時代の始まりである。
参考文献
・國土潤一「第1部 世界の名ピアニストたち アリシア・デ・ラローチャ」、『新編 ピアノ&ピアニスト』 東京:音楽之友社、2013 年、133 頁。
・原口啓太「Pianist Special Interview no.217 エレーヌ・グリモー」、『月刊ショパン』第 31 巻第1号、2014 年、5~9頁。
・東条碩夫「第8回 浜松国際ピアノコンクールのすべて 本選総評と最終結果」、『月刊ショパン』 第 30 巻第1号、2013 年、43~45 頁。
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