憂鬱の大波
元旦。
子供が夫に連れ去られた。という表現を用いるのは絶対に私だけで、皆がわかりやすいように説明すると、子供と遊びたい夫が、夫と一緒にいたくない私を置いて、子供と一緒にどこかへ行った。
そういうことなんだけど、私からしたら連れ去られたに過ぎない、どうしても。
連れ去る前に、夫は私の実家に挨拶に来ると言うので、じゃあ私は席を外したいから子供とどこかで待っているという約束になった。
席を外したい理由は、夫がいるその映像の記憶が思い出されるだけで私は苦しくなるので、その場所が家だというのは今後苦しむ率が増えることになり、それを避けたいと思ったから。
待っている間に寝ていた子供が起きて、しかも泣き叫びながらでとても不機嫌。夫が来るのもなんだか遅くて、私は一気に不安定になり、心を保つために言葉を発さないようにして過ごした。
到着した夫に子供を渡すまでも時間がかかって苦しくて、あと、こんな長時間どんな話をしたのだろうかと思って苦しくて。
話の内容は聞きたいけど、夫と話をする時間はなるべく短く終わらせたい。そこで私は、「どんな結論が出た?」などと聞いたけれど、ただの世間話だったと言う。
「みんなが私を遠巻きに見ていて悲しいけど、私はこういう風に聞くことでしかみんなの気持ちがわからないから」と伝えたけど、まぁ、いつものように手応えのない反応で、暖簾に腕押しとはまさにこのことだと思う程。そんなことが毎回続いていくと、やっぱりいやだと思う。
私は家に私自身を持ち込みたいのに置き場所がない。だから今でも持ち歩いているのだけど、これがなかなか疲れることで。それで一度倒れて、それからは専門の機関に出向いては少し置かせてもらうのだけど、やっぱりそういう借りの場所じゃなくて、ちゃんとした置き場所が欲しいと思う。
確かに、いきなり「今日の結論は何?」とか聞いてくるような人間と、毎日うまく付き合える人ってなかなかいないのだと思う。うんざりすると思う。それでも、うんざりしながらでも、表現が分かり合える人がいい。
私だって生きているからたくさんうんざりする。うんざりし合いながらも一緒にいたいと思える人と、自分自身を持ち帰って同じ部屋に置いておけるような人と、一緒にいたいと思ってしまうしそれが幸せだと思ってしまう。
と、言葉にしたら涙が引っ込んだ。
子供は夫に連れ去られ、私は大波に攫われた。
2019年が始まった。
だけど、おめでとうって言えないから、私はまだ新年に到達できていない。