【東京五輪-世界と戦った日本勢④】
50km競歩連続入賞が途切れる窮地を救った川野の6位
決してあきらめない“気持ち”を込めた歩きができたのは?
男子50km競歩の伝統を死守したのが、6位に入賞した川野将虎(旭化成)だった。大会8日目(8月6日)早朝5:30にスタートしたレースは、終盤は気温30℃、湿度76%という悪コンディションになっていた。直射日光の当たる路上温度はさらに高かった。
28km付近でD・トマラ(ポーランド)が集団から抜け出すと、後続との差をどんどん広げて独走ならぬ独歩。3時間50分08秒で金メダルを獲得したが、96年アトランタ五輪以降では最も悪い優勝タイムである。それだけ過酷な気象条件だった。
川野は2位集団で歩き続けていたが、41km過ぎにおう吐してしまう。しかしすぐに起き上がって43kmすぎで2位集団に追いつく懸命の歩きを見せた。46km付近でメダル争いから後れたものの、最後まで粘り切って3時間51分56秒でフィニッシュ。08年北京大会から続くこの種目の連続入賞を「4」と延ばした。
●おう吐直後に地面を叩いて悔しがった川野
おう吐してしまった直後の川野の悔しがり方が、普段の穏やかな性格からは考えられない激しさだった。うつ伏せの状態で、痙攣しているかのようにも見えたが、拳で激しく地面を叩いた。
レース後の川野は医務室に直行して、コメントは数時間後に陸連がメディアに公開した。そのときは「暑さにやられてしまいました。気持ちがいつ切れてもおかしくない状況でしたが、そこは最後まで絶対に勝負するんだ、という強い気持ちでやりました」と、いつもの川野の口調で話していた。
しかし地面を激しく叩いたときの感情は、周囲からは計り知れない激しさがあったに違いない。東洋大時代から川野を指導する酒井瑞穂コーチが川野の心情を代弁した。
「50km競歩は時間が長い分、その人の生き様が出る種目です。この競技をどう考えてやっているのか、という部分や少しの努力の積み重ねが現れやすい。川野は2年前(東洋大3年時10月)に五輪代表に決まりましたが、東京五輪が1年延期され、その間ずっと準備をしてきました。それだけ真剣に、思いを込めて歩いていたのに倒れてしまった。そんな自分が悔しかったのだと思います。それでもすぐに起き上がって前を追ったのは、自分が競歩をやっている意味を考えられたからでしょう。それがなかったらあきらめていたと思います」
川野が倒れたとき、日本の50km競歩としても最大のピンチだった。
今大会で国際大会での50km競歩の実施は最後になるが、競歩3種目(男子の20kmと50km、女子20km)のなかでも、つねに先陣を切ってきた種目である。世界陸上競歩初入賞は91年東京大会50kmの今村文男(現五輪強化コーチ)、五輪初入賞は08年北京五輪50kmの山崎勇喜だった。初入賞は2つとも7位である。
そして競歩初メダルも、15年世界陸上北京50kmの谷井孝行(自衛隊体育学校。現コーチ)と、16年リオ五輪50kmの荒井広宙(自衛隊体育学校。現富士通)だった。自衛隊体育学校の先輩後輩が、2年連続連続銅メダルを取り競歩関係者を喜ばせた。
オリンピックは北京五輪以降入賞が続いていたし、15年世界陸上以降は16年リオ五輪、17年世界陸上ロンドン、19年世界陸上ドーハと4大会でメダルを獲得し続けていた。
だが今五輪では丸尾知司(愛知製鋼)と勝木隼人(自衛隊体育学校)の2人が、早い段階で後退していた。丸尾は17年世界陸上4位、勝木は18年アジア大会優勝の実績を持つ。最後まで集団に残った川野が倒れたとき「50km競歩の好成績が途切れる」と誰もが思った。そのピンチを救ったのは川野の強い気持ちに他ならなかった。
●種目が違う池田との切磋琢磨が川野の力に
川野は東京五輪代表を決めた19年全日本競歩高畠大会(3時間36分45秒の日本記録・世界歴代11位)など、試合では何度も気持ちの強さを見せていた。日常生活でも周りに流されない芯の強さを持っている。だが、今回のような激しい感情を見せたことはなかった。
唯一、今回を彷彿させるシーンとして思い当たるのは、19年の関東インカレ10000m競歩で失格したときだ。レースを中止させられた後も控え場所に戻らず、トラックの外で優勝した池田向希(旭化成、当時東洋大3年。今五輪20km競歩銀メダル)たちのレースを見続けていた。直立不動ともいえる姿勢を崩さず、レースを凝視する表情に感情の激しさが感じられた。
そのレースに至るまでの川野の歩みを紹介する必要があるだろう。
川野は静岡県の御殿場南高3年時に、夏のインターハイ5000m競歩3位、秋の国体5000m競歩2位、そして冬の全国ジュニア選抜競歩10km競歩優勝と、世代トップのレースウォーカーだった。
ところが翌17年から、一緒に東洋大に進んだ同じ静岡県(浜松日体高)出身の池田に勝てなくなる。池田が周囲の予想を大きく上回る成長を見せ始めたからだ。大学2年(18年)5月の世界競歩チーム選手権で、今五輪20km競歩金メダルのM・スタノ(イタリア)らを抑えて優勝したときは、池田をよく知る川野でさえ衝撃を受けた。
だが池田とはプライベートでも仲が良く、多くの選手が日常生活では口にしない競技の目標なども、互いに話すことができた。2人が目指す種目が50kmと20kmに分かれ始めたことも、よかったかもしれない。
高校時代から長い距離を練習で歩き、適性を感じていた川野は50kmでの代表入りを目指し始めた。学生が50kmまで距離を伸ばすこと自体が珍しいが、チャレンジ精神旺盛な川野は躊躇わなかった。「池田は20kmで、自分は50kmで東京五輪代表になろう、と話していました」
2年時10月の全日本競歩高畠大会で初50km競歩に出場し、3時間47分30秒の学生記録で3位に。3月の日本学生競歩20kmでは東洋大入学後、全国大会では初めて池田に勝った。今も学生記録として残る1時間17分24秒で1秒競り勝ったのだ。
そして3年生となり、4月の日本選手権50km競歩では優勝した鈴木雄介(富士通。その年の世界陸上金メダリスト)に次いで2位に食い込んだ。世界陸上代表こそ逃したが、3時間39分24秒は当時の日本歴代2位。僅か2回目の50kmで、世界と戦えるタイムを出すまでに成長していた。
だが、その翌月の関東インカレで失格したのだった。3月、4月と自己記録を大きく更新するパフォーマンスを続け、疲労が蓄積していた時期だ。張りが出たハムストリング(大腿裏)を上手く使えないため、歩型が乱れていることは酒井コーチから指摘を受けていた。レースで出さないように努めていたが、それができなかった。
自分の不甲斐なさを猛省しながらレースを見つめていたのだろう。池田に連勝できなかった悔しさもあったかもしれない。日頃は仲が良くても、レースとなれば互いの戦術が相手に漏れないように、コーチに口止めをお願いするような関係だった。
今五輪でも池田が前日の20km競歩で銀メダルを取ったことで、川野も十分すぎる刺激を受けた。
「ラストの勝負どころで果敢に挑んでいく池田の姿に心を動かされました。自分も続きたい、という気持ちでレースに臨みました」
コロナ禍の影響もあり、川野は50km競歩の国際大会は東京五輪が初めてになった。それに対して池田は優勝した世界競歩チーム選手権だけでなく、19年世界陸上ドーハも6位に入賞していた。酒井コーチは、池田のドーハと同じ6位に入れば十分と考えていたが、川野自身は50km競歩が今五輪で最後となることや、先人たちの業績を受け継ぐためにもメダルも意識していた。
川野の歩き自体は、気持ちの面で入れ込みすぎた部分がなかったとは言い切れない。だが川野の強い意思が、おう吐してもなお、果敢に前を追う歩きを可能にしていた。
●新種目の35km競歩につないだ功績
川野の強い“気持ち”が日本の窮地を救ったが、歩きの特徴としては持久力が一番にあり、それに加えて20km競歩で学生記録を持つスピードもある。チェンジペースができることも川野の武器になっている。
歩型も3年時の関東インカレこそ失格したが、50kmでは警告はほとんど受けない。今回注意を1回受けたが警告はゼロ。注意も18kmの給水で他の選手と接触したのが原因で、不可抗力といえる部分だ。金メダリストのトマラも注意1回だが、銀メダルのJ・ヒルベルト(ドイツ)は警告を2回、注意も2回受けている。全体的に警告・注意が少ないレースというわけではなかった。
持久力をつけ、スピードを研き、警告を取られない歩型を作る。そのためのトレーニングを徹底して行ってきたが、思ったような練習ができず涙ぐむことさえあったという。そのくらい技術を追究し、トレーニングを行った選手だからこそ、“気持ち”がパフォーマンスを上げる最後の1ピースになる。
やることをやっていなければ、仮に強い“気持ち”を持っていたとしても力は発揮できないし、勝負への強い“気持ち”自体も持てないだろう。
川野は「暑さ対策やレース展開でベテラン選手との経験の差を感じた」と言うが、五輪本番までやれることはやってきた。夏場でもしっかりと食べることや、飲み物をたくさん飲むトレーニングも行っている。直前合宿でも昼と夜は、ご飯500グラムを食べることができた。
東洋大の酒井俊幸監督からは、シドニー五輪マラソン銀メダルのE・ワイナイナ(当時コニカで酒井監督はチームメイト)がどんな練習を行い、日常生活でどんな細かい努力をしていたかを教えてもらった。東洋大卒業後は住んでいるアパートからグラウンドまで、毎日3回の往復も歩き、ちょっとした積み重ねを継続した。
直前合宿では今村五輪コーチたちスタッフに、積極的に話を聞きに行った。そして酒井監督と酒井コーチから聞いた50km競歩には生き様が出るという話が、最後まで“気持ち”を切らさないことに直結した。
レース中は鬼気迫る表情で歩いた川野だが、レース後にはいつもの謙虚な青年に戻り、周囲への感謝の言葉をまず口にした。
「大学から今まで、弱虫だった自分の背中を押してくださり、ずっとご指導いただいている瑞穂コーチにまず感謝したいです。また、今回は50km競歩の実施が最後になります。本来ならメダルという形で、今村さんたち50km競歩の伝統をつないでくださった方たちに恩返しをしたかった。しかし今の自分の力を最大限に出し切った結果の6位です。50km競歩は終わってしまいますが、新しい競歩の世界がスタートする。日本の競歩をそこにつなげていく気持ちで頑張っていきます」
来年の世界陸上ユージーン大会からは、50km競歩がなくなり35km競歩になる。35kmなら20kmで代表になれなかった選手の多くが、スピードを生かして挑戦してくる。今までの50km競歩よりも激戦が予想されるが、20kmの学生記録を持つ川野も代表有力候補だ。
東京五輪の川野の歩きは、日本競歩界の伝統をつなぐ役割を十分に果たした。そしてその役割は、今後も川野に期待していきたい。
TEXT by 寺田辰朗
写真提供:フォート・キシモト