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【日本選手権10000m① 男子は伊藤達彦が代表内定】

疲労骨折で苦しんだ伊藤が地元レースで五輪代表を決める快走
気持ちの強さを発揮し27分33秒38のセカンド記録日本最高

 日本選手権10000mが5月3日、静岡県のエコパ陸上競技場で行われ、男子は伊藤達彦(Honda)が27分33秒38のセカンド記録(その選手の自己記録に次ぐ2番目の記録)日本最高で優勝した。昨年12月の日本選手権では、日本新(27分18秒75)で優勝した同学年ライバルの相澤晃(旭化成)に敗れて2位だったが、そのときに最後まで積極的な走りをして27分25秒73の日本歴代2位をマーク。東京五輪参加標準記録の27分28秒00を破っていたため、今大会の3位以内で五輪代表が内定した。
 ニューイヤー駅伝で疲労骨折した両大腿骨がなかなか治らず、苦しい時期が続いた。その分、レース後のインタビューは伊藤の思いがあふれ出ていた。

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●苦しかった分の思いが表れた場内インタビュー

 代表が内定したレース直後の伊藤の場内インタビューが、ちょっと感動的だった。
「うれしいです、ほんと。1月のニューイヤー駅伝(4区区間16位)で疲労骨折をして、2カ月半、走ることができませんでした。自分、無理かな、とあきらめていた時期もありました。Hondaのスタッフのサポート、(母校の東京国際大の)大志田秀次監督、トレーナーの方たちのおかげでケガを克服することができ、今日、良い成績を残すことができました」
 今大会に向けて一番の危機を乗り切ったプロセスを、親身になって支えてくれた人たちへの感謝の気持ちが真っ直ぐな言葉になった。
 続いて口にしたのは、地元への感謝の言葉だった。伊藤は静岡県の浜松商高出身。地元開催が「うれしい反面プレッシャー」にもなっていた。疲労骨折は治っていたが、直前にヒザの痛みが出て追い込まれていたからだ。「3日前に急に痛くなって、泣きそうになりました」という。
 そんな伊藤の背中を押したのが、両親や友人をはじめ、地元観客の声援だった。
「自分は今日、適当に10000mを走っただけですし、頑張ってないです。地元でたくさんの方が応援してくれたおかげで走ることができました。本当に感謝しています。(スタンドの皆さんは)伊藤達彦をオリンピックに導いたのは自分だと、色んな人に自慢してほしいいです」
 伊藤の言葉には、代表入りまでの苦しかった状況が凝縮されていた。

●疲労骨折克服に大学恩師の尽力

 伊藤は記者たちの取材に対しても、「ケガしているときに一番大きかったのは大志田監督と話したこと」と、大学時代の恩師の名前を出していた。伊藤は「大志田監督から『オマエはオリンピック行ける選手だから』と、当たり前のように言っていただいた」と説明したが、伊藤の心にそこまで響いたのはどうしてなのか。
 大志田監督に経緯をうかがった。
「2月中旬にウチ(東京国際大)とHondaが近い場所で合宿をしていたので、どんな状況か伊藤に確認したら、痛みがあってまだ走っていない状態でした。ウチのドクターにも診てもらって、(セカンドピニオンとして)何かできることをアドバイスできるかもしれない」
 大志田監督も1986年のアジア大会1500mで金メダルを取った選手で、当時はHondaの所属で、引退後はコーチもしていた。現在のHondaスタッフとも親交があり、Honda側の許可を取って東京国際大の合宿に2泊3日で参加させた。
 伊藤はドクターから運動を禁止されていたが、別のドクターやトレーナーからも意見を出してもらい、「この体の使い方なら痛みのある部位に負荷がかからない」というアドバイスをしてもらった。
 大志田監督によればリハビリメニューは、「伊藤も二の足を踏んでいた」というほどキツい内容だった。
「体幹トレーニングでも心拍を上げるメニューもやりましたし、痛みのある前腿に負担をかけずにお尻回りを鍛えるメニューもやりました。体全体は固定しながら部位だけをじっくり動かすようなメニューは、陸上競技の選手にとって本当にキツいのです。細部にまで神経を集中する必要があります」
 伊藤は東京国際大の合宿に合流したとき、走れないという診察結果が出て、精神的にもかなり塞ぎ込んでいた。大志田監督が本人のモチベーションを喚起する意味で「オマエならオリンピックに行けるから」という言葉をかけたという。
「前向きな気持ちにならなければ、地味でつらいリハビリに取り組めませんから」という、恩師の愛情が込められた言葉だった。伊藤はその合宿参加を機に、その後もリハビリトレーニングを継続した。
 そのかいあって、(負荷の大きい)ポイント練習を再開した伊藤は、「思ったよりスタミナもスピードも落ちていない」と実感できた。レース2~3週間前の練習は、「昨年12月の日本選手権前以上のタイムでできました」と、自信を回復させて日本選手権に向かうことができた。
 大志田監督は少しでも教え子の役に立てば、という思いでしたことだったが、伊藤にとっては大きなきっかけになった。

●東京五輪では「相澤にだけは負けたくない」

 伊藤は気持ちを前面に出すタイプのランナーだ。高校時代は全国大会に出られなかった伊藤がここまで成長できたのは、自分の気持ちに正直に頑張ってきた部分が大きい。
 大学3年時の日本学生ハーフマラソンで3位となったことで、長距離選手としてやっていく自信を持つことができた。だが相澤に僅差で敗れたことが悔しく、その後は相澤をライバル視し、目標として頑張るようになった。「練習で苦しくなったときは、相澤ならここをもっと頑張るのかな」と思って耐えるようにしている。
 それでも大学4年時のユニバーシアード・ハーフマラソン、箱根駅伝2区、全国都道府県対抗男子駅伝7区、そして昨年の日本選手権10000mと負け続けた。「どの大会でも前にいる。記録を出しても相澤が抜いて行く」と、天敵のように感じている。
 その気持ちが強かったから、箱根駅伝2区では火の出るようなデッドヒートを展開し、区間2位の伊藤も以前の区間日本人最高記録を上回った。昨年の日本選手権は、終盤まで相澤の前を積極的に走ることで標準記録を破ることができた。
 今回の日本選手権に相澤は出場していなかったが、相澤に追いつくために何としても東京五輪代表に入りたかった。
 ヒザの痛みはレース当日の午前中も、「6割しか戻っていないと電話で話していました」(大志田監督)という状態だったが、ウォーミングアップや地元の声援でアドレナリンが出たのだろう。レース中に痛みが出ることはなく、終盤も「だいぶ余裕があって、仕掛けどころを残り1000mにするか、600 mにするか」(伊藤)と考えながら走ることができた。
 気持ちで痛みを感じなかった、とまでは言えないが、多少はそういった部分もあったのではないか。
 次のエピソードも、伊藤が気持ちで走るタイプであることを示している。
 東京五輪の目標を問われた伊藤は、「相澤選手だけには負けたくない思いで走ります」と答えた。代表選手が国際大会の目標を話すときは、メダルや入賞、決勝(準決勝)進出など、大会の成績を答えるのが普通である。同じ国内のライバルの名前を挙げる選手はまずいない。
 だが伊藤は、相澤に対抗心を燃やすことで、大きな力を出してきた。大志田監督の言葉で気持ちが切り替わったことで、故障に対して前向きになれた。
 伊藤の東京五輪は、国内のライバルを意識することで好成績を残すことになる。

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TEXT by 寺田辰朗
写真提供:フォート・キシモト

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