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日本選手権② 戸邉直人が東京五輪代表有力候補に

日本人初の3試合連続2m30台に成功
東京五輪で研究者ジャンパーとして1つの完成形を

 日本選手権1日目(6月24日・大阪市ヤンマースタジアム長居)。決勝種目数が5種目と少なかったこともあり、東京五輪代表内定選手は出なかった(五輪参加標準記録突破と今大会3位以内が条件)。しかし男子走高跳に2m30で優勝した戸邉直人(JAL)が、7月1日に世界陸連が発表する世界ランキングで出場資格(出場人数枠の32人)を得ることが有力になった。19年にはワールド・インドア・ツアーで優勝し、2m35の日本記録も樹立した。国際大会に強さを発揮してきた戸邊が、東京五輪へ向けてより安定した強さを発揮し始めた。

●“風”を読んで2m30を3回目にクリア

 日本選手権初日の長居の風は、気まぐれだった。女子走幅跳では6回の試技の中で、追い風になったり向かい風になったりした。
 男子走高跳に2m30の好記録で優勝した戸邉も、2m20と2m27の1回目でバーを落とし、2m30を2回失敗した。「風に翻弄された」からだった。
「2m30の3回目は風もしっかり見極め、丁寧に跳ぶことを心がけました」
 それができたのは、戸邉に豊富な経験があり、研究者としても走高跳の知見を深めてきたからだろう。
 海外の試合では会場レイアウトの都合で助走距離が長くとれないこともあり、助走歩数を9歩・7歩・9歩・8歩・6歩と幾度も変えてきた。腕の使い方もシングルアームアクション(踏み切り時にバー側の右腕だけを上げる)からダブルアームアクションに変更し、またシングルアームに戻している。
 助走の走り方、踏み切り位置なども、戸邉は東京五輪で最適の技術を見つけるため色々と試してきた。さらには走高跳の研究を大学院で5年間続け、論文も提出している。今大会の優勝は、経験と知見が勝負どころで発揮された結果だった。
 戸邉は「標準記録の2m33は跳びたかった。そこは残念です」と無念の表情を見せた。2m35の日本記録保持者としては当然の思いだろう。だが2m35は風の影響がない室内競技会で跳んだ記録である。気まぐれな風の中で跳んだ今回の2m30が、評価できない記録では決してない。
 今年5月の静岡国際とREADY STEADY TOKYO、そして日本選手権と2m30を3試合連続でクリアした。2試合連続は戸邉を含め3選手がやっていたが、3試合連続は日本人選手としては初めての快挙だった。

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●技術派、理論派と言われる戸邊が体力面も重視

 跳躍種目ではよく、主流の屋外よりも室内の自己記録が上になる選手が現れる。体調のピークはオリンピックや世界陸上が行われる屋外シーズンに合わせるが、助走が風の影響を受けないことで自身の技術を発揮しやすくなるからだ。ただ、室内競技会は床が特設ボードという会場も多く、「たわみ方」(戸邉)が会場によって違ってくる。その点は記録にマイナスに働くが、たわみに上手く合わせることができると、逆に記録が良くなるケースもある。
 戸邉も以前は室内を苦手とし、18年までは屋外でしか2m30を跳んだことがなかった。ところが19年2月のヨーロッパ遠征で突如室内でも良い跳躍ができるようになり、2m35の日本記録を含め4連戦中3試合で2m30台をクリアした。
 前年の秋からシングルアームに戻し、その跳躍の型が洗練されてきた時期だった。当時はそうした技術的な側面を、戸邉本人も好調の要因と分析していたが、今年5月のREADY STEADY TOKYOの際には「跳びに行ったというより跳べちゃった連戦でした。(体力面も含め)良い状態ができてしまっていたのだと思います。今は良い状態を意図的に作れて、あのときよりもコントロールできています」と話した。
 アベレージとしては19年2月の方が高い。2m35、2m33、2m29、2m34と続けたのだから、平均すれば2m32強になる。だが期間としては2月2日から20日までの19日間と短かかった。今季は3試合と以前と比べ少ない試合数だが、5月3日から6月24日までの53日という期間で2m30を続けている。
 それを可能にしているのは、体力的にもしっかりしたものが作れているからだろう。今大会後には「体調的には自己記録(日本記録)を狙っていけると感じていました。足りていないのは技術面」とコメントしているのだ。
 おそらく25~26歳で2m30台を連発していた頃と、29歳の今とでは体力の作り方が違う。体力があっての技術、技術に合わせた体力という考え方は誰でも持っている。戸邉もどちらも重視していたが、以前は技術を考えることが多かった。それでバランスが良かったが、年齢とともに体力面をより考えないとバランスが保てなくなった。

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●「何をすれば走高跳の調子を上げることができるか、経験的にわかっている」

 研究者の顔を持つ戸邉は、その知見を自身のトレーニングに活用してきた。目の前の成長より、長期的なスパンで成長することを考えたとき、研究活動が有効になると判断した。
 しかし豊富な経験がなければ、研究成果の応用幅が狭まってしまう。エストニア人の代理人とも契約し、多くの国際大会に積極的に出場した。外国に長期間滞在して、国際大会のストレスを感じないようにもした。
 2010年のモンクトン世界ジュニア(現U20世界陸上)の銅メダルから11年。東京五輪で引退するわけではないが、そこで跳躍の完成形を作りたいと戸邉は考えて来た。大一番の1カ月前の日本選手権で、標準記録は跳べなかったが手応えは得ることができた。
「技術的にはよくありませんでしたが、体の状態がよかったので、踏み切りだけある程度形になれば2m30は絶対に跳べると感じていました。これまで上手くいったシーズンも失敗したシーズンもありましたが、色々な経験をしてきたこと、論文を書いて知見を得てきたことなど、すべてがプラスにできています。トレーニングでは特定の何かが良かったというより、そのときどきでどんな練習を取り入れるか、そのバランスが良くなっている。その練習を冬期から継続できていることが大きいと思います。何をすれば走高跳の調子を上げることができるか、経験的にわかっている」
 以前、科学的なエビデンスと自身の感覚で迷ったときにどうするか、という話を戸邉としたことがあった。そういう選択をしないといけない局面が、何度もあったのだろう。戸邉は「自身の感覚を優先する」と答えたことが印象に残っている。そこは競技者としてのエビデンスなのかもしれない。
 日本の走高跳史上、最高のジャンパーと言われている戸邊が、研究者ジャンパーとして、その成果を出すときが来た。

TEXT by 寺田辰朗
写真提供:フォート・キシモト

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