カオナシの正体

皆さんの中で、「千と千尋の神隠し」を知らない人はいないのではないでしょうか。それほど、日本で、いや、世界で有名な作品がアレですね。

しかし、あのエネルギー溢れる一方繊細なストーリーの中で、一体どのキャラクターが何を象徴しているのかは、じっくり考えたことはないのではないでしょうか。


私は個人的に「千と千尋の神隠し」という作品は、資本主義(お金がものをいう社会)のあまりにも強い流れに警鐘を鳴らす作品であると考えています。


少しいやな感じがする方もいるかもしれませんが、思い出してみてください。千尋は現実世界から、不思議な世界へと移動させられてしまいましたよね。そのあと、八百万(やおよろず)の神様たちが訪れる湯屋で働くことになりました。ここで、千尋は「働かせてください」と強く懇願しました。実に現代の就活に似ています。働かなければ(社会的に)死んでしまうという資本主義社会の中で、なんとか千尋は湯婆婆に交渉し、就活に成功しました。


その時に何が起きたか覚えていますか?そう、名前を奪われたのです。現代の就活も同じではないでしょうか。一度働き口を見つけ、そこの組織に所属するときには「私はだれなのか」を奪われてしまいます。いわゆる「駒」にされてしまうのです。

そして、都合よく使われ、自分の意志や想いは組織の中で潰されていきます。夢や目標の実現に向けて頑張る世界とは異なり、金と利益が最優先の世界では「個」は尊重されないのです。

私とは何か、を奪われたのは千尋だけではありません。資本主義の湯屋の中で安定した位置を築こうとしたハクでさえ、自分の名前を奪われ、気づくと我が何者であるかを忘れさせられていました。

もちろん資本主義の世界も捨てたものではありません。リンのような心優しい先輩もいるものです。


しかし、ここで登場したのが「カオナシ」です。カオナシは自分の言葉で話すことができません。蛙を飲み込み、人を飲み込み、他者の声を借りて話をする存在です。まるで文献の引用しかしない大学生のようですね。そのカオナシは、いわば「愛を知らない存在」です。千尋が「そこにいると濡れちゃうよ」と親切に窓を開けてくれていたことがありましたね。あの時にカオナシは千尋に恋に落ちたのです。


ここから、カオナシは「パパ活」を始めようとします。砂金を手から出すことができ、ありったけの金を手にしたカオナシは、客として旅館で盛大にもてなされました。そして、自分の地位を確信して喜んで風呂に入り、食べ物を食べ、人を駒のように扱いました。旅館で働く人々も、金をもらえるのであるから、それはそれで喜んで働きました。資本主義社会の「金がある者が強い」という動きそのものです。



そしてカオナシは手からありったけの砂金を出し、千尋を誘惑しました。まるで「おれのものになってくれないか」とでも言いたげに。


しかし、千尋は元々資本主義の世界の住人ではありません。「愛を知る」存在が千尋です。その千尋は言いました。「私の欲しい物はあなたには出せない」と。

千尋が欲していたのは、大切な人(親)を元の世界で元の姿に戻すことです。当然、カオナシにそんなことはできません。


叶わぬ愛の行く末を知ったカオナシは、暴走しましたね。思い切り暴れました。そして執拗なまでに千尋を追いかけまわし、「おれのものにならないなら死んでしまえ」と言わんばかりの形相で攻撃をしました。これは現代の愛情不足から成ってしまう「ストーカー」や「DV」を描いていると思いませんでしょうか。


カオナシとは、要するに資本主義があまりにも強く流入した現代社会で、物と金こそが極上と勘違いした青年の極めて強い承認欲求の塊を表しています。単なる欲望ではありません。「愛に飢えた若者」であり、「金こそが極上と考える中年」の双方を描く対象こそがカオナシなのです。


これを裏付けるかのようなエピソードが他にもあります。ハクが竜になったとき、千尋は「ハク!」と咄嗟に口に出しました。しかし、その一方で魔法をかけられ3体の親父の頭が「坊」に成りすましたとき、湯婆婆は近くで接しているにも関わらず、その変化に気づきませんでした。これは、千尋とハクの深いところで繋がっている「愛」は姿かたちが変わってもお互いが分かるのに対し、表面的な姿しか見ていない湯婆婆は坊が姿を変えると気づかないという愛の深さの違いを明瞭に対比して描いているワンシーンです。


こうして、千尋とハク、カオナシと千尋、湯婆婆と坊、など多彩なキャラクターがそれぞれ対比され、表面的な繋がりとそれを可能にしてしまう資本主義、さらに愛情不足が深刻化していく表面的な(テストの点やお利巧にしていたかしか見ない)子育てなどが次々と表現されていきます。

こうして、千と千尋の神隠しという物語は進んでいきました。

相手の本質を見抜く目が腐ってきた人々と、その一方で金や物に目がくらむ若者から中年、それはこの映画の中で極めてはっきりと描かれています。


しかし、救いようがない未来を描く映画なのかと言えば、そうでもありません。銭婆のおうちを思い出してください。


カオナシはあれほど金に目がくらんで、もてなされて手を挙げて、千尋を誘惑していましたよね。それが銭婆の家ではどうだったでしょうか。「ここで働いてくれるかい?」と、名前も奪われずに働くことになったのです。


カオナシがこの時に手に入れたのは、「本当の意味で誰かに必要とされる体験」なのです。いくら儲かるとか、どれだけ高級なものが手に入るとか、そんなことではなく、本当に誰かに必要とされて誰かの役に立てるところ、すなわち「居場所」に出会ったのです。

カオナシが旅館でもてなされた時の盛大な料理や大きな温泉に比べれば、銭婆が出したのは小さなケーキ一切れと小さなお茶ひとつです。


しかし、それは金や地位目当てではなく、本当にありのままの「自分」を受け入れてもらった本当のおもてなしだったのです。

その時のカオナシは本当にホッとした顔をしていましたよね。落ち着きも取り戻し、自分の居場所があることを喜んでいました。そういうことが、現代の世の中ではもっと必要とされているのではないでしょうか。



そんなことを感じさせてくれる映画が、「千と千尋の神隠し」なのですね。


カオナシの正体は資本主義が作り出した「愛情不足で承認欲求の塊の青年~中年」でした。されど、絶望のみを描くのではなく、銭婆のような本当のやさしさと愛情が救ってくれる情景も描かれていたのです。


金と物が極上となり、目に見えるものばかりが大切にされる現代社会。。。

しかし、そこに一石を投じ、本当に大切なものを、今一度考えてみてもよいのではないでしょうか。


と、カオナシの正体を暴きながらの考察でした。

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