差し伸べられたるは死の導き
こんにちはタブレトシです。
今回は僕の今日明日を、メンタル保ったまま生きるためにしている最低最悪な終わってる考え方をお伝えしようと思います。
死こそが救済ということです。
死は救済?
昔からよくされている論争。死は救済なのか、救済ではないのか。あなたはどう思いますか? 僕は死こそが救済だと思っています。昔からずっと「死は救済! 否、死こそが救済だ!」と考えて生きていました。では、「死こそが救済というのならさっさと死ねばいいのに何故死なないのか?」という疑問が出てくると思うかもしれないが、これは様々な考え方ができる。
死こそが救済なのに死なない理由
死なない理由として、生きる理由があるからだと思います。例えば、チェンソーマンが完結するまで死ねないとか、アーマードコアの新作が出るまで死ねないとか。これらは生きる理由と言えると思います。
しかし、生きる理由もないのに生きている人もいます。そんな人達はどういうことなのか。
それは、生きる理由とは別に死にたくない理由が存在するのです。
例えば、死ぬのが怖いとか、自殺に失敗して苦しむのは嫌だとか。死や死の失敗を恐れるからこそ起こる死への恐怖感。生きる理由もないのに死なない人間は9割くらい死への恐怖感からだと思います。
今日明日を生きるための死への信仰
僕は死は救済だと思っているけど、生きる理由と死への拒否感の両方があるタイプなので自殺はしませんが、もう1つ理由があります。僕は死を神格化して信仰している(という設定)です。
死は必ず訪れます。だからこそ救済なのだと思うのですが、死を神格化することにより、気軽に死ぬのは死に対して失礼に値すると考えています。必ず訪れる救いの手を待つのです。神様とやらを信じても神様とやらの救いの手は必ず訪れるとは限りません。必ず訪れるとは限らない救いの手よりも、必ず訪れる救いの手の方が信用できると思いませんか? そんな必ず訪れる救いの手を、自らが無理やりとっては死に対して失礼だと思います。だからこそ生きるのです。
生きている時間を噛み締めて、救いの手が差し伸べられるのを待つ。それこそが神聖なる死への導きということ。
まとめ
・死は救済
・生きる理由があるからこそ死なない
・死ぬことは怖いこと
・死を神格化することで死への敬意を示す
・自殺は死に対して失礼に値する
・だからこそ差し伸べられたる死の導きを待つ
死は救済なのかという問いには、正直死が訪れないとどうなるのか分からない。だからこそ、僕は皆に今日を強く生きて欲しい。しかし、生きるためには理由がいる。死ぬ理由なんて簡単。生きる理由がないから。そんな、生きる理由がないけど、死への恐怖感から生きている人間にこそ死を神格化して信仰して欲しい。仮に実際は恐ろしいものでも、皆平等に訪れる存在。皆平等に貰えるなら楽しみにして待ってる方が、怯える他者よりも優位に感じる気がしない?
それと、実際に僕は死を楽しみにしている。なぜなら、一説によると人が死ぬ時、アドレナリンだとか種の保存のためだとかで射精するらしい。それが人生で最も気持ちいいとか何とか。どんだけ気持ちいいんだろうって楽しみでしかない。死の瞬間に人生で最も気持ちいいなんて、まさしく冥土ノ土産だな。
終わり