奇蹟を願う。。。僕の人生。。。語ります。
『シンデレラのコイン』デジタル絵本” Coins from Cinderella “digital story book VLLOアプリ使用
色んな形で…願いは叶う。
祈りましょうね💚
現実が、とっても辛いのなら、妄想だって必要。人の迷惑になりさえしなければ
空想癖も、その人の 得意技。
そうやって、戦後を引きずって暮らした…こども時代の僕は生き抜いた。
5歳から、近所の手伝いをして。。。
例えば、井戸の水を汲んで畑まで届ける。牛の餌の整理。鶏の餌に混ぜる貝殻を砕く。庭木の陰に生んだ鶏のたまごを集める。。。。庭の草をむしる。(抜き取る力が無かった。。。。)この作業?で、乾燥芋や、大麦粉、時には弾けた完熟トマト。…。。。
この事に気付こうとしない(したくない)お嬢様育ちの母が。。。
ひとこと
『あんたは、灰被りか?』と。
そして
『よしや、めしいとなろうとも…物もらい、乞食にはならんで!』
ちゃんとお手伝いしてる。。。と、口答え出来ぬ自分であった。
親に口答えするなんて、滅相もない時代?(兄は平気で、愚痴・不平不満タラタラやったけど)。。。
それは
『あんたさえ居らんかったら…私は身の振りようがある。』と、離婚後の辛い時に、僕を叩いた後に、遠い目で…この言葉を落とした。
「かあたん!かあたん!。。。」
捨てられる…と、思った。その翌年から
僕の養子先を探す母であった。高校2年生の頃まで
ずっと、養子先を求められた。
が、僕は既に 書道塾を持っていて、生活費も出していたし、高校の授業料も払っていたので
母の小言も、僕の頭の上を過ぎていくだけのことであった。
学友のようにノートを科目別に出来るわけではなく、
チラシの裏利用の、紙のコヨリで閉じたメモ帳に記入して。後に一冊のノートにまとめていた。このノートさえ、試験前
授業で寝ていてノート取りが出来ていない級友?に有料貸出して学費の足しにした。ガリ勉であった。
大学受験の為に、貯めたお金は
127400円になった。が。。。国立一期校を受験したら
旅費・宿泊費・合格通知依頼手数料。。。を使って、次の2期校受験(東京学芸大)を
受ける余裕が無くなっていた。急ぐのに、電話代が勿体無くて、手紙でその事情を連絡した。
僕は、高校2年生の夏から、受験先の[学生会]に連絡をとって、どう言う準備をすれば良いのか?とか、実技の内容は?とか…それは熱心に書き送っていたのである。東京学芸大では、教授にも目が止まった期待の新受験生であった。
なので、僕の受験不可能の便りを受けて、教授自ら、お電話を下さって
『うちに泊まったら良いから受験しなさい。宿代が掛からなければ大丈部でしょ?』
綺麗な東京弁であった。
『でも、もしも一期校の新潟大学に受かったら…
入学に向かう旅費が足りなくなります。。。から』と。
受かる可能性は低く、風邪をひいて帰省していた自分は
全て諦めて…仮内定を頂いていた
米子高島屋紳士服縫製部
に行く…つもりになっていた。
『残念です。何とかならないのでしょうか?』と言う、更なる念押しを受けている僕の隣で、
母は無言。。。。
そのあとも
『あんた、この家でおさんどんして…高島屋でお手伝いから始めたら、宜し!』
パシっ! と、一言。
確かに。食事を作るのが苦手。と言うのではなく、
はなっから、作ってあるのを食べる側の育ちの人。
デパ地下の惣菜を、発泡スチロールのトレーのままに食卓に並べる人。
お弁当も、生涯に3回だけ作ってくれた。
1度目は、食育の為の保育園で。ご飯無しの、玉ねぎのカレー炒めを。。。アルマイトの大人用の弁当箱に。。。ギュウギュウ詰めに。
園長先生に こっぴどく叱責を受けて。。。余計、その後のお弁当は遠のく。
次が、小学生3年の運動会の時。ご近所の駐在所の奥様に促されて
焦げ目いっぱいの卵焼きと、フレンチトースト。茹で玉。たまご。。。玉子。。。
3回目が。。。中学生の時やった。。。けど、いつやった?
『気が向いたから。。。』と。
中身は、全て、デパ地下購入したもの。開けたら、半分に片寄って。。。た。
それでも、嬉しかった。
それまで、自殺未遂(小4夏)この事は誰も気付かず。
この日は突然、生きるのに…疲れた。
風呂の焚き付けの松ぼっくりを籠に集めて歩く裏山の中で。切り出しナイフで。
錆びていたので、何回も手首を切ったけれど、赤く傷付くだけで。。。
その後、笑い転げた。泣き転げた。天を仰いだ。青かった。
世の中が静まり返っていた。
トボトボ帰宅して、そのまま、風呂を沸かし始めた。
好きな
『路傍の石』のページをめくりながら。。。。
・家出騒動(小6秋)。。。
貯めていたお駄賃(近所のお年寄りさんたち七人から頂いていた)を
入れていた貯金箱を勝手に開けて。。。電気代の足しにした。と言う母に
切れた。この時は
口答えした。何度も。
「うるさいわあ、あんた。何回も、何回も。」
「ここまで、誰が育てて上げたと思うの!」
「ええ加減にしときよし!どうせ、あんた、神戸の荒川にタライで流れてたんを
拾い上げて上げたんやから。。。感謝し!」。。。「もうええやろ!」
。。。
切れた。ぶっちぎれた。
以前より、父の連れ子で、仕方なしに育ててくれてる。。。と、強く思うこと頻りやったので。。。
「お世話になりました。」「叔母さん」「おば・さん」!
この言葉に
母が激怒した。
「出て行け〜!」
丁度、僕の誕生月の9月。何の祝いも宛にできない現実。
どうせ、又、僕がこっそり少しの贅沢の(卵を2個使うとか…)夕ご飯を作り、
母の毎回焦げたり、生煮えだったのご飯をよそうんや。それも、フォローしながら。。。と。。。。
冷めた!気持ちが一遍に冷めた。
もう嫌!疲れた。
郵便貯金通帳だけ握って。。。出た。多分、11時頃。
直ぐ近くに、通っている小学校があり、その運動場の端も鉄棒の所まで。
その隣の、雲梯。。。太鼓橋様の運動具の上。
星が綺麗で。。。泣くことも無く、
[馬鹿した!コッソリ。。。明日まで待って家出すれば良かった。。。]と。
夜は
バスが通ってない。
。。。
。
こんな後先も考えない自分を
この先どう付き合えば?
なんて。。。
『おお〜い、おお〜ィ』
太鼓橋の上に座って脚をブラブラしてる姿を
月明かりの下、直ぐに分かった。。。とか。。。母さんが、困るから。。。。
とか。僕も困るから。。。とか、兄が迎えに来た。
この時
(自分だけ、部屋も机もベッドも貰って…実の子の兄貴なんか。。。)と思った。
『ふ〜ン。困るの?』
その後、1週間以上、喋るのをやめた。毎日、ガラス窓を拭いた。
そうしていれば、母も、兄もその似たような親子の顔を
見なくて済む。
家出騒動があっても、僕の食事担当はそのまま。
兄は何一つしない。お米の入っている一斗缶の場所が邪魔や!と言って
蹴った時の。。。軽い音にさえ気づかへん。
米の残りが少なくなったら。。。僕の責任にする。母も。
夕飯の時の兄も。
月末、いつも家計簿のチェックをして
『あんたいつになったら…複式簿記にせんの?』
何のこっちゃ…中身は?僕のバイトのお金の参入金…見てないやろ!
口答えせんかった。
実の子では無いのだから…。
*
*
*
この事は、僕が50歳の時、
この二人に
伝えた事である。
いつも、お駄賃に添えて貰っていた
饅頭を2個(その意味は?)、学校から帰るなり、母に聞くことも無く
大きな手で掴んで口の中に入れた兄。
。。。僕、待ってたんやけど。2個は三人では割れへんけど。。。。
直前なら、干からびずに済むから。。。待ってたんやけど。皆んなの顔の揃うのを。
見上げる僕がたまに見せる悔し涙にも、気づきもせんかった。。。兄。
兄、176cm。僕、163cm。食べたい時に。。。全部、兄貴に食べさてて。育ちの悪い、未熟児生まれの僕。更に、育たんかった。。。。。
★
でも、
今は
母をオクリ、
病む体ではあるけれど…
とても閑かな暮らしを過ごさせて頂いてます。
兄には実家をあげた時から、
もとの他人に
戻って貰ってます。
困ってるやろな…
時々、思うけど。。。。。。
★
願いは叶う。
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