
【無料公開】24年振りにぼくがペルーに向かった、もう一つの理由。
※元フジタ、ペルー代表のホルヘ・ヒラノさんを中心にペルーの日系人を描く作品を取材中。無料公開ですが、気に入ればチップをお願いします。取材費に充てます!
今回、リマ行きを決意したのは取材以外の理由もあった。
色々なところで書いているように、ぼくが初めてリマを訪れたのは、1997年1月、ペルー大使公邸事件の取材のときだ。週刊誌には、テレビ局や新聞社のように支局はない。しかも事件が起きてからしばらく経ってからの現地入りである。現地のスペイン語通訳は全て押さえられていた。
ぼくは6月から一年間の休暇をとり、サンパウロを中心に南米大陸を回るつもりで、スペイン語を学んでいた。とはいえ、NHKラジオ講座を二年間聴いていただけ、だが。
さすがに何もつてがなければまずいだろうと、友人がリマ在住の日系人の婦人を紹介してくれた。彼女は年をとっていることもあり、常時同行はできないという。
この彼女がリマの入り口になった。
日系人社会に沢山の知己を持ち、多くにの人を紹介してくれた。その一人が、リマの旧市街にあるレストラン「ドン・ペドロ」を営む小波津さんだった。
ドン・ペドロは、古ぼけたビルの1階にある、洞窟のような店だ。木製のテーブル、椅子も古い。しかし、いつも掃除が行き届いていた。食事は安く、美味しい。並びにあるペルーの新聞「エル・コメルシオ」の記者たちのたまり場でもあった。
ぼくは小波津さんから彼らを紹介され、一緒にボールを蹴った。当時はフットサルとは呼ばれておらず、「フッチボール・サロン」だった時代だ。彼らがタラポトというアマゾン地域のジャーナリストに繋いでくれた。アマゾン地域は左翼ゲリラたちの残党が残っており、外務省は立ちいらないように勧告していた。


その後、98年に南米大陸を一周したときも、リマにしばらく滞在した。近くに宿をとり、ほぼ毎日、ドン・ペドロで昼過ぎからビールを飲んでいた。
第二次世界大戦中、日本はペルーの敵性国家となった。アメリカの収容所に送られた日系人もいる。日系人が営んでいた店は襲われた。アメリカの収容所に送られた日系人もいる。小波津さんは「うちはペルーの人が守ってくれたんだよ」と言った。恐らく嫌なことは沢山あったろう。しかし、彼は繰り言を口にすることはなかった。
リマで閉口するのは、偽札が多いことだ。店でお釣りとして偽札を受け取ると、ババ抜きのようにできるだけすぐに使うしかない。小波津さんの店では、どこで手に入れたのか、いつも真新しい紙幣をお釣りに使っていた。真面目に生きることが日系人の誇りだと彼は考えていた。
ぼくは99年末に出版社を辞めた。「偶然完全 勝新太郎伝」に書いたように、人を裏切ってでもスクープを取ろうという週刊誌の体質に嫌気がさしたからだ。一年間は、スペイン、ポルトガルを彷徨い、本を読んで過ごした。失業保険が切れる2000年末、ぼくが向かったのはペルーだった。
ペルー大使公邸事件の取材で自分の無知を思い知った。週刊誌の特派員として延べ二ヵ月近く地滞在したが、恐る恐る撫でているに過ぎない。出版社の社員時代と違い、妥協せず、自分の作品を書きたいと思い、反フジモリで、催涙弾が飛び交うこの国を描くつもりだった。
しかし——。
いくつかの出版社を回ったが、ペルーはマイナーな題材だと鼻で笑われた。取材費を確保するのが精一杯だった。いくつの原稿を書いたものの、長編ノンフィクションにはならなかった。
今回の本は、そのリベンジでもある。
ぼくをこの国に招き入れてくれた小波津さんには恩義があった。2001年の段階で、彼は半ば引退しており、店は娘に任せていた。国外に移民した沖縄出身の人間が集まる「ウチナンチュー大会」で沖縄に行き、ゲートボールをやることを楽しみにしていた。日本にいるとき、知らない番号から電話が入った。小波津さんがだった。ウチナンチュー大会で日本に来たという。さすがにぼくは沖縄に行く時間はとれなかった。取材が一段落した金曜日、店を訪ねることにした。
かつて、ペルーのタクシーを使うのはかなり大変だった。メーターはなく、あったとしても使わない。乗る前に運賃交渉から始めなければならない。正当な価格を言う運転手は皆無だ。適正な値段を事前に知る必要があった。
そこでシェアライドである——。
ルイスに聞くと、ペルーではDiDiという中国のソフトが最も一般的だという。インストールしてみると、ローミングで繋いでいるためメッセージが受け取れず、本人確認ができなかった。そこでブラジルで使っていたUberを試すことにした。ホテルに5分もかからず、車が来た。
リマの運転手はみんな話し好きだ。ぼくが20数年ぶりにベルに来たこと、全く違う街になって驚いていることなどを話した。ペルー大使公邸事件に触れると、「フジモリの手法は強権だったが、ゲリラを根絶した」と彼は返した。かつて、ペルーのメディアは感情的にアルベルト・フジモリを批判した。亡くなって少しは再評価されているのかもしれない。
運転手は旧市街が近づくと、ぼくが座っていた助手席の窓を閉めた。そしてぼくのスマホに目をやり「気をつけろよ、人前で出すな」と言った。相変わらず、旧市街は治安が悪いのだ。
Googleマップで、かつての場所に店があることは確認していた。恐る恐る中に入ると、昼前のせいか客はいなかった。カウンターに見知った顔があった。小波津さんの娘だった。
「20年振りに来ました」と声をかけると「ああ、覚えている。日本のジャーナリストだよね」と明るい声になった。配置はそのままだが、テーブルや椅子は変わっていた。

ウエイターは20数年前もいた男だった。「ビール」と頼むと、困ったような顔をし
て「ない」と首を振った。もはやアルコールは出していないようだ。時代は変わったのだ。
「お父さんはいますか」と娘に聞いた。すると「亡くなった。7、8年前かな。2017年」と素っ気なく言った。
やはり、そうかと思った。小波津さんが笑顔で迎えてくれると思っていた自分が馬鹿なのだ。
その間、ぼくは何度もブラジルには行っている。途中に立ち寄れば良かったのだ。いつまでも彼が元気でいると思っていたぼくが悪い。
店でいつも食べていた、カウカウの味は変わっていなかった。カウカウは、牛の胃袋、じゃがいもなどを煮込んだ料理だ。

食後、旧市街を歩いた。小便の匂いが漂ってきた旧市街は綺麗になっていた。しばしば泊まっていたホテル・マウリはまだあった。バーの扉を開けて、「何時からですか」と聞いた。中にいた老人が中へ入れと手招きした。
「何を飲む、ビール、それともピスコ・サワー、あるいはコーラか」
ピスコ・サワーはペルーの蒸留酒ピスコにレモンジュース、卵白、シロップなどを入れたカクテルだ。ホテル・マウリのバーは発祥地の一つとされている。「もちろんピスコ・サワー」だとぼくが言うと、老人はカウンターの中に入った。ミキサーで氷を砕く音がした。


ピスコサワーを飲むのは、2001年以来だと思った。そして20数年前の自分の姿がふっと降りて来た。
あのとき、ぼくの周りは霧にかかっていた。
せっかくペルーに来たが、自分の力のなさを改めて感じた。この国を一冊の本に描くのは、ぼくの手に余った。では何を書くのか——。自分の思う作品を作ると決めていたが、やりたいテーマと商業的な価値の乖離があった。一年間仕事をしなかったため、貯金は減っていた。このまま生きて行くことはできるのか。あのまま出版社にしがみついたほうが良かったのではないか。ぼくは藻掻いていた。
あれから24年が経ち、書き手としてなんとか生活している。もっと売れてもいいと思う作品もあるが、大切なのは、継続して作品を出すことだ。さらに、会社を立ち上げて、二人の社員もいる。まずまずの人生だと思う。
かつてのぼくに声ほ掛けるとすれば——
色んな知り合い、友が去って行くこともある。それでも自分の信じる道を進めば、助けてくれる人も出て来る。あなたが思っているほどの成功は収めないかもしれない。ただ、そんなに悪くもない、と。


幾らなのだろう。