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「笑顔」不要論

単に「苦しそうな顔」より「苦しそうな笑顔」の方が、よほど苦しい。

せめて「苦しそうな顔」をしてくれれば安心して心配できるのに、「苦しそうな笑顔」はそれをも許してくれない。だからより苦しい。

苦しさの本質はいつも、「苦しさを表に出せない苦しさ」だ。

「笑顔が共通言語」みたいな、地獄のようなお花畑がある。そこでは、かりそめの「仲良し」と「幸せ」と「癒し」を享受するため、みなが一様に「苦しそうな笑顔」を浮かべる。

苦しい。

無理くり引き上げられた口角と、仕方なく細められた目の奥に鎮座する、懊悩と孤独。私にはそればかりが伝わってくる。

「笑顔」なんて要らない。

私はヴァイオリンを弾いてるとき、どうしても「笑顔」になれない。なぜかは知らない。ヴァイオリンを弾いているとき、私はこの上なく満たされた気持ちで、愉悦に浸っているけれど、「笑顔」は出てこない。「笑顔」は、楽しさや幸せの絶対条件ではない。むしろ人は没頭しているとき、「笑顔」を作る余裕などない。

「じゃあ、顰めっ面や仏頂面をしてればいいわけ?」

そう思う。

無理に「笑顔」を絞り出すくらいなら、いっそその方がいい。なぜ顰めっ面や仏頂面になっているかについては考えた方がいいとは思うけど。

「笑ってない笑顔」ほど苦しそうなものはない。
その手の「笑顔」が居並んだ記念写真とかたまに見ると、その苦しさにやられて倒れそうになる。

同調圧力に潰されたような目尻、ストレスに屈したような口元、そんな「笑顔」を武器に、「ちゃん付け」や「ハグ」で「仲良し」の確認を繰り返すようなマネはやめた方がいい。苦しさが増すだけだ。

苦しいならせめて、遠慮なく「苦しそうな顔」ができる関係を。

そして、「苦しそうな顔」をしてる人がいたら、遠慮なく声をかけ、遠慮なく手を差し伸べられる場を。

せめて私の目と手の届く範囲だけでも。

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竹遊亭田楽
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