「ほんとう」はいつも「身体」の方
「いい」と思ってないことに「いいね」したり
「素敵」と思ってないことに「素敵」とコメントしたり、「美味しい」と思ってないものを「美味しい」と言ったり、「美しい」と思ってないことを「美しい」と言ったり、「好き」でもない人や場所やモノやコトを「好き」と言ったりするの、
本当に誰のためにも何のためにもならないし、むしろいろんな人やモノを傷つけたり損なったりするから、やめた方がいい。
とか書いたところで、
“自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ”
とか茨木のり子を引用してみたところで、
言葉は届かないし響かないのは理解している。同調圧力に屈して、思ってもいないこと感じてもいないことを口にする癖が付いたら、口にしたことが「思っていること」になってしまうから。本当は何を思っていて何を感じているのかなんて、瑣末なことになって、端っこの方に追いやられてしまうから。
「ほんとう」はいつも「身体」の方。
先日の竹細工講座の参加者で「なんで参加したのか私にもよくわからない」という人がいた。
信用できると思った。
身体の声は大抵、脳みそには説明不能で意味不明で、確かなのはいつも身体の声だ。身体の声を無視し続けると顔がおかしくなる。顔も身体の一部だから、嘘はつけない。脳みそがどんなに笑顔の指令を出しても、ニコニコしたその顔の目は笑いに頑強に抵抗している。
身体が嫌がったら、脳みそが止めても、逃げる。
身体が喜んだら、脳みそが嫌がっても、食らいつく。
それだけで随分変わるとは思うのだけど、脳みそ偏重身体軽視のこの世の中では、「動機」が説明できないことすると「意味不明」「理解不能」の誹りが免れられないから、身体の声は無視がデフォルトになる。そりゃ元気もなくなる。
私はせめて、身体が生きてる人と共に生きたい。
身体が生きてる人と、身体で美味しいものを食べながら、いい顔で笑い合いたい。