「竹林整備」考
今日は「竹林整備」について。
自分ちの庭木を切ってもらうならちゃんとお金払うのに、「竹林整備」となると無償の「ボランティア」が当たり前なのはなんなのだろう。
地域の草刈りを地域の人たちが無償でやるのはまだ分かる。地域の人たち自身に恩恵のあることだから。
でも「竹林整備」は、地域に住んでるわけでもない、整備して恩恵に預かるわけでもない人たちが、無償で行うのが当たり前になっている。
「無償であっても、本人の意思で行っているのだから、目くじら立てなくてもいいのでは?」
そう思う人も多いだろう。私だって全てを有償にすべきだと考えているわけではないし、無償で行われる行為を全否定したいわけでもない。
しかし引っかかる。
本来、対価が発生すべき仕事を、時間とお金に余力がある人たちに無償で任せることは、一見合理的に見える。
だがそれは果たして「持続可能」であろうか。
その本来払われるはずの対価は、現役世代が得るはずのものではなかったか。一部のお金と時間に余力のある人々が善意で行う無償仕事は、その動機がどんなに純粋であれ,結果的に現役世代の有償仕事を奪っているのではないか。
まだある。
美談的な善意の無償仕事が、行政の怠慢を引き起こすのだ。その身近な例が、子ども食堂であり、能登の復興だ。行政が無償仕事に甘え始めたら、一体何のために税金を払っているのか分からなくなる。国家の重要課題である貧困対策や災害対策を「ボランティア」に任せるのなら、もはや国家の体を成しているとは言えない。
おっと、竹林整備の話だった。
では房総竹部はどうしているのか。有償なのか、無償なのか。
結論から言うと、我々は「竹林整備」をほぼしていない。
では竹林は放置されて荒廃し放題か、と言えばそんなことはない。
我々は一々「竹林整備」などと改まって何かをする必要がないほどに、小まめに竹林に入っている。
そういう意味では、日々「竹林整備」をしているとも言えるし、「竹林整備」が不要であるとも言える。
かつての暮らしに思いを馳せてみる。
かつて里山に生きていた人々は果たして「里山整備」や「竹林整備」をしていただろうか。
私はそうは思わない。
生活の糧として身近な資源を生かしてさえいれば、周辺の環境は勝手に整っていく。わざわざ「里山整備」「竹林整備」などと名付けるまでもない。生かすためには小まめに出入りせざるを得ない。小まめに出入りしていれば、荒廃などしようがない。
「荒廃していくこと」が問題なのではない。
「生かされなくなったこと」の方が問題なのだ。
その問題を「放置」したまま、「整備」を繰り返したところで、一時的に片付いて気持ちがいいかもしれないが、長期的に見て大した意味などないし、やめた途端に元の木阿弥だ。
「日々の暮らしに生かす」と簡単に書いたが、ライフスタイルが変わった以上、かつてのような「生活道具を作る」という生かし方では限界がある。それもまた「持続可能」とは思えない。
では房総竹部は、竹をどのように日々の暮らしに生かしているのか。
我々が価値を見出しているのは、竹という素材そのものの実用性や特殊性というよりも、その竹を自身の手によってカゴにしていくプロセス(割り、剥ぎ、編み)の方である。
そこには、現代を生きる我々がとうに失ってしまった身体性を賦活させる、重要な何かが含まれている。
だから我々は、「竹さえ使えればどんな生かし方でもいい」「竹林に人が入りさえすればいい」などとは全く考えていない。あくまで大切なのは、そのプロセスであり、我々の身体の方だ。竹が生かされた結果、我々の身体性が失われたままであるならば、我々はそんな取り組みに価値を感じない。
年に数回のイベントで竹林に入って竹を切り出して何かに生かしたところで、我々の身体に変化は起きないし、そんな生かし方だからこそ「竹林整備」が必要になる。その手のイベントでは収益が望めない以上、勢い「竹林整備」は無償ボランティア頼みになる。悪循環だ。
念のため、もう一度書く。
竹という素材は、我々の手によって加工するプロセスの中で、我々の失われた身体性を賦活してくれる,という意味において、とりわけ現代においては、唯一無二の価値を持つ、と我々は考えている。だからこそ日々竹林へと入り、竹を切り、手を動かす。機械化や自動化や下請け任せに我々が興味がないのは、それらは我々の身体を竹から切り離してしまうからだ。
身体から離れた頭でっかちの「竹活用法」に我々は価値を見出せないし、それが「持続可能」であるとイノセントに信じることができない。
「手を動かさない人は信用しない」
房総竹部立ち上げから共に手を動かし続けてきた篠田さんの言葉。私も同じ考えだ。耳が痛い人もいるだろう。極端な考えだと思う人もいるだろう。
それでも我々は立ち上げ以来ずっとそうして来たし、今後もそうして行くつもりだ。今後様々な変化に対応していくつもりだが、そこは絶対に揺らぎようがない。
長くなった。
竹を通して身体を賦活させる具体的な実践として、我々の竹細工講座はある。
ぜひとも体感してみて欲しい。