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「やべー奴」の「ヤバさ」を早期発見するために

【「やべー奴」の「ヤバさ」を早期発見するために】

ガンでもなんでも早期発見が大事で、早めに気づけば浅くて済んだはずの傷だって、発見の遅れのせいで致命傷につながるリスクがある。

人との繋がりは、心身を健やかに保つ上で、「必須栄養素」であると私は考えているが、基本的に「誰と繋がるか」という選択は我々には用意されていない。出会いというのはあくまで偶然であって、「誰と出会うか」を選択することは原理的に不可能だ。

では人と繋がりを作る上で我々に選択できることは何もないかといえば、そんなことはない。

「誰と繋がらないか」は選択できるのである。

つまり私が以前からその大切さを繰り返し主張している「さよなら力」の話である。

https://note.com/tazakiken/n/n1a456e717d62

では「誰と繋がらないか」を選択するために必要な情報をどのように手に入れるのか。

その点に関して、私はSNSを大変重宝している。

「やべー奴」の「ヤバさ」を極大化した形で可視化してくれるツールとして、SNSは群を抜いて有用である。

「やべー奴」の「ヤバさ」なんて、リアルで一目見たらすぐにわかるでしょ。

そんな声もあるかもしれない。

私もかつてはそう思っていた。

でも今はそうは思っていない。

他愛のない雑談をする限りにおいて、大抵の人は感じのいい「いい人」であり、逆に初対面の時点で明らかに「やべー奴」に見える人がいたら、その「ヤバさ」はむしろ軽微だと考えた方がいい。

「やべー奴」の「ヤバさ」の本質は得てして、「こじれている」というところにある。

そして「こじれている」ということはつまり、その「ヤバさ」は暗部に隠蔽されている可能性が極めて高い。だから「やべー奴」ほど人当たりはいいし、「ヤバさ」のかけらも見せない。その暗部に隠蔽された「ヤバさ」というのは、対面だと、長期的かつ定期的に出会って、しかも緊急事態や協働を減るなどしてようやく気付けるものであって、何気ない雑談程度では可視化することはほぼない。

だが、SNSではそれが可視化する。

その可視化は、意図されたものではもちろんない。

むしろうっかりと漏れ出てしまっているような、「迂闊な漏洩」に近い。

そこには、SNS特有の事情がある。

SNSにおいては、リアルとは比べ物にならないほど、善意が暴走しやすいのである。

この「善意の暴走」が、「やべー奴」の「ヤバさ」を端的に物語ってくれる。

具体的には、迷い犬迷い猫のシェアであったり、選挙の投票依頼であったり、スピリチュアルイベントへのお誘いであったり、リアルでは絶対可視化しないような「善意の暴走」がSNSにおいては白日のもとに晒される。

なんてありがたい。

とここまで書いておいてナンだが、SNSにおける「やべー奴」の「ヤバさ」の露呈という意味において、この投稿も例外ではないと私は思っている。

ご覧のように、私もこじれているし、私の善意も暴走しているわけで、私のSNSにおける投稿を見て「やべー奴」だと判断する人が必ずいる。それでいいと思っている。むしろそのために私も投稿をしている。

誰だって誰かにとっては「やべー奴」なわけで、誰からも「やべー奴」に見なされないように気をつけて必死に生きると、その願望とは裏腹に、これ以上ないほどにこじれて、その「ヤバさ」は極限まで高まる。皮肉だが仕方がない。

誰かにとって「やべー奴」である私は、あくまで私にとって「まともな人」と共に支え合って生きたいと強く願う。私にとっての「やべー奴」に振り回され続けたり傷つけられ続けたり、そんな風に生きるのだけはどうしたって嫌だ。

だから私はSNSに感謝している。

「やべー奴」の「ヤバさ」を、今日も余すことなく見せてくれてありがとう。

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竹遊亭田楽
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