SNSに自撮りを載せる人は劣等感の塊という偏見を持った結果、己の未熟さを痛感する。
今から書くことはありきたりかもしれない。インスタにプリクラの写真をアップする女性。エナジードリンクの写真をストーリーに載せる男性。
きちい。
そのような方々と上手く話せる自信はない。不意に失礼な事を言ってしまいそうだから。そんな自分の顔が可愛いと思っているのか?その自信はどこから湧き上がってくるのか?誰かに見られているという意識が低すぎではないか?そういう奴らは自分を肯定したいのだろうか。己を肯定したいのか。それほど自分に自信が無いのか。
そうか、自信が無いのか。自信があるように見えて無いのか。そう思うと、とても可愛く見えてくる。不安や劣等感を埋めるためにわざわざ「インスタ映え」なる場所に行って写真を撮って、アプリで加工して、少しでも誰かに認めてもらいたい。そんなことをしないと自分を自分として認められないのかと思う。自己承認欲求の塊だ。ダセェなぁと思ってしまう。
こんな事を言ったものの、僕だって人のことをあーだこーだ言える程偉くない(当然)し、同じような事をやっている。
僕はインスタにradikoのスクリーンショットを載せて「オレは他の人と違うんだぜ」ということをアピールしている。
誰かに認められたい。褒められたい。センスがあると思われたい。
けど、褒められるだけの努力をしていない。褒められなくて当然だ。今の僕は誰からも認められることもなく、褒められることもないだろう。そこまでの努力をしていないからだ。
いや、正直に言うと褒められないほどの努力もしていない。こんなに努力をしていないのに、何故か僕が友達だと思っている人は努力をしている人が多いように見える。
努力をして目標に到達している。もしかしたら彼らは、努力をしてない奴を身近に置くことで安心しているのかもしれない。
でも、そう思われていてもいい。だって努力をしていないのだから。
こんな努力をしていない自分と友達で居てくれて、ただただ感謝しかない。
彼らはもっと上を目指している。素直に羨ましいと思う。その向上心が欲しい。努力をする才能が欲しい。努力をして認められたい。褒められたい。こう思っているのに努力が出来ない。こんな自分が嫌で変われるものなら変わりたいと強く思う。
けれども、人間の本性は変えられない。こうやって逃げてきた。いつまで逃げ続けて生き、怠惰な人生を送るのか。1番自信の無い人間が、他人と自分を比べて、相手のボロを見つけ揚げ足を取るような愚行をいつまでするのか。
今死んでも良いのかと自分に問いた時に心から「良い」と思えるように生きていきたい。
そして僕は、今日もインスタにradikoのスクショを載せる。
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