書くことを杖にする
かつてのわたしは、何か自分の身にかかえきれないことを文字にしていた。
この展示がよかった。あの映画がすきだ。そんな気持ちに居所を作るために書いていた。わたしの心は月か鏡のようなものだった。
インプットが枯れがれになっているいま、月も鏡もすっかり曇っている。書きたい題材というのはもうない。
しかし、今のわたしは、かつてのわたしが知らなかったことを知っている。
4時半目が覚めて、起きるのにも、寝るのにも希望を見出せなくて、動けないまま二度寝して、また起きて、寝て、起きて、すでに疲れている朝7時、そんな時の楽しみは文章を書くときだ。
文章を書くということは、退屈を持て余し、余裕を持て余しているときには、いまいちつまらない。
あたりを見回しても、目に入るもののすべてに救われない、そんな状態で書くとき、楽しい。
書くことなんてない。内容などない。でも、自分なりの筆(鉛筆でも、ペンでも、キーボードでも)の前に座る。座ることができないならそう思いやる。それだけで楽しい。
正確に言えば、楽しいわけではない。この世には楽しみというものがある、と思い出すことができる、というほうが近い。
楽しみがある、と感じられること、それだけでよいのだ。苦しい朝を救うには十分すぎる。
書くこと、書くという行為がこの世にはあると把握すること、その概念を杖にすれば、わたしは歩く。
杖の鳴らした空気の余波は、筆の前から離れても、完全に消えてはしまわない。
限りなくゼロに近づきながらもゼロにならず、とよみ続けるので、わたしは昼には昼なり、夜には夜なりのあり方で、1日を歩き通すことができる。
飯島耕一の詩に打たれていたのはもう10年近く前だが、わたしは今初めて彼の詩を読め出した、のかも、知れない。
きみはことばで歩く
脚によってではなく
(「歩行の原理」)
わたしが、この文章を書くにあたり、歩くというモチーフを選んだことは、この失語と抑鬱に苦しんだ詩人の影響あってのことだったのか。
それとも、飯島耕一の苦しみの深刻さと社会性にくらぶべくもないはいえ、それなりの苦しみを味わったとは言ってもよいであろうわたしの言葉が、偶然にその詩と調和したのか。
仮説を立てるのは考えられる状況を網羅しようとする思考の癖であって、二つしかあげないのは動機と根気の弱さの表れだ。答えを出そうとする意思、出す手段、何もない。
つまり、この文章だって何も言っていない。
そんなものでも杖である。そんなものでも生きている。
いいなと思ったら応援しよう!
