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エッセイ風味_1


この記事を読んでくださる皆さんへ


「人生は一度きり」という言葉をよく耳にするが、
私たちは本当にその意味を理解しているだろうか。
誰しも人生を面白く、充実したものにしたいと考え、アプローチし、探っていく。
「人生は冒険の連続」という言葉もよく耳にする。
自分自身を成長させるために新しい経験や挑戦を求めるのが人としてあるべきかたち、理想像とされているからだ。

が、理想像を構築された者たちは果たして自分はこの型をきちんと模倣できているのだろうかと一抹の不安を抱かずにはいられない。
理想通りに人生を歩んでいる人は決して多くはないというのにもかかわらず、こうあるべきと定められるとそれが多数派だと勘違いしてしまうのが人の心理だ。
さらに厄介なことにこの不安は、特に他人の輝かしい人生の一場面を目にすればするほど膨らんでいく。

私も決して例外ではない。この表現し難い不安に苛まれるとひどく落ち込み、自分は生きていていいのだろうかと思うほどには思いつめる。
先日、会社で暇つぶしに雑誌を読んでいたところ、この悩みに対応する回答が思わぬ形で得た。
定期的な「自己分析」により、この不安は和らげることができるという。これはやらねばと思った。

さて、「自己分析」に必要な作業は何だろうか。
自分なりにあれこれと思案した結果、
大まかに2つ思い浮かんだ。
アウトプット、フィードバックだ。
自分の人生を他者はおろか自分相手にアウトプットするような場面が果たしてあるだろうか。と考えてみた。
強いて言えば大学生のリクルートをする際に使うスライドを作っているときくらいではないだろうか。
無論、そのような調子なのでフィードバックなどはしたことがない。

ここまで考えて、よし、と思い立った。
せめて見返せるよう、どこかに記しておこう。と。

このブログでは、アウトプットを兼ね、物心ついた頃あたりを起点とし、ある限りの記憶を頼りに冒険しすぎな半生を順繰り記していこうと思う。途中多少(かなり)お見苦しい場面もあるかと思うが、寛大な心をもって、ご高覧いただければ幸甚だ。

1.幼少期

3歳、父方の曽祖父の見舞いに行った病院の売店で「かわいいこいぬ」を買ってくれようとした祖母に「食虫植物図鑑」を買ってほしいと言ってドン引きさせた。食虫植物に関心のある3歳児、客観的に見てメチャクチャ嫌だ。

4歳、幼稚園を受験した。この時点でアルファベット、平仮名、自分の名字を漢字では書けるようになっていた。
面接で園長先生に「尊敬できる人は?」と聞かれて殆どが「お父さんとお母さん」と答えるところで、ニッチな考古学者の名前を答える。先生ドン引き、ゲンコツ案件である。
当時は空前のエジプト考古学ブームで、幼い私はすっかりエジプト考古学に染まっていた。友達に「ミイラは鼻の骨を折って鼻から脳みそを抜く」と教えて泣かせた。

この時に両親は学んだことだろう。「子供に見せるテレビ番組は教養を得られるものであれば何でも良いという訳ではない」ということを。

6歳、周りの子供よりも自分が大きいことに気が付く。自分は頭が良いと勘違いしているクソガキだったのに加え、フィジカル的にもかなり優位に立っていると自覚する。
幼稚な言い合いを秒で解決させるべく、相手をタックルで吹き飛ばすという進化を遂げた。死ぬほど怒られた。

8歳、オススメの本をイラストと文章で完結に紹介する課題があった。人の言葉を喋る天才ハムスターがマッドサイエンティストに攫われてロボトミー手術をされそうになる本を紹介した。台に固定されて頭蓋が開かれているイラストをファンシーかつキャッチーに書き、先生をドン引きさせた。
さらにその課題は教室の後ろに1ヶ月ほど掲示され、授業参観で暇を持て余した父母の目に止まる。ゲンコツ案件である。

※全5巻のうち第2巻

夏休み、「小学二年生」という雑誌を買いたいと言って祖父に書店に連れて行ってもらい、3倍くらい値の張る古生物図鑑を買わせる。1歩間違えれば詐欺行為、もうここまで来れば立派なクソガキだ。

この秋、生活の時間(家庭科と理科が入り混じったような教科 田植えをしたり虫を捕まえたりする)に、日頃から私に恨みを募らせていた男子にケツにイガグリを投げられる。チクチクと痛むケツを守りつつ保健室に行き、絶叫しながら養護教諭に毛抜きで一本一本抜いてもらったことを今でも鮮明に覚えている。クソガキ、人から恨みを買う言動は避けるべきだと学ぶ。


つづく

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