「サイドミラーを見ることにつけても、魂を込めることが出来ないようじゃお客様を危険にさらしてしまう」といったタクシー運転手がいた。
「お前、この仕事向いてねぇんじゃねぇか」
「・・・・はい」
「『下っ端だからって気にするな、予算の事も心配するな、失敗してもケツは幾らでも拭いてやるから』って言っただろ」
「・・・はい」
―――何であんなに怒られるのかが意味わかんねぇ。
實光(サネミツ)は少しばかり放心状態になりながらタクシーに乗り、30分前に上司にこっぴどく叱られたことが頭の中を回想していた。
窓の外を眺めながら、頭の中には「なぜ?」と理解できない疑問と小さな怒りが延々と反芻される。
今回の事で一番驚いたのは、普段はミスをしても笑ってくれて手助けをしてくれる上司の石川が見たことも無い形相で怒っていたこと。怒る姿を見たことが無いどころか、想像すら出来ないほど穏やかな石川に怒られたことで、茫然としていた。
―――怒られるのも意味わかんねぇけど、なんで石川さんがあんなに怒ってんのかも理解出来ねぇ。もしかして酒乱か. . .?
怒られたのは酒の席だった。しかも、会社の新入社員を歓迎する会のような立ち位置でもあり、社員はほぼ全員揃っている。
最近の世間の風潮的に、飲みたくもない上司とのお酒の席なんて苦痛だという空気もあるが、實光の会社は社員30名にも満たない小さくてアットホームな会社で、それが飲み会にも表れ、一般的に嫌がられる会社の飲み会とは違い穏やかさがあった。強制でもない。
二年目だった實光はその飲み会で幹事を任されていることもあり、少々疲れていたのだが、その結び頃に上司の石川に叱られた。
普段は怒らない分、酔ったらそれが出てしまうタイプなのだろうか?
完成間近の積み木のタワーが一瞬にして破壊されていくように、上司の石川に対しての信頼を失いそうになる疑問が頭の中で何度も駆け巡った。
数週間前から準備していた会の幹事で疲れていた上に、こっぴどく叱られた飲み会が終わり、急げば終電に間に合う時間でもあったがとにかく心を落ち着かせたかった。
会社メンバーが二次会、電車での帰宅とバラバラに分かれるなかで實光はそそくさとその場を離れタクシーに乗った。
どれだけ考えても理解が出来ず、まとまらない。考えれば考えるほど石川への信頼の気持ちが削れていくばかりだった。
「ウシーッ、ウシ、ウシォケー」
思索の迷路から抜けかけたとき、運転手の妙な掛け声が聞こえてきた。
そういえば乗って来た瞬間から頭の中は怒られたことばかりに気を取られていてどんな運転手さんだったかも、行き先を言ったのかも覚えていない。なんとなくその妙な掛け声は聞こえていたような気もするが、意識がはっきりとこの瞬間に戻って来たのはたった今で、この掛け声に気が付いたのも今だった。
「ウシー、ウケー」
聞き取りにくい掛け声だが、ウシーと言っているように聞こえる。
運転手さんは50代後半くらいで、前方を注視し少々首を前屈みに両手には白い手袋をしながらハンドルを10時10分の位置で丁寧に握る。
健気にも一瞬一瞬気を抜かない仕事への姿勢が後部座席からも伺える。
その運転手が発する妙な掛け声も気になるが今はどこに向かっているのだろうか。そもそも行き先は言っただろうか。
思考の迷路から抜けたばかりというのに、酔いも合わさって思い出せない實光は再び混迷していた。
続く