タクシー小話 7 「しゃっくりに怯える」
ヒック、としゃっくりのような小さな声音が聴こえてきた。
深夜一時過ぎ、新橋で男を乗せるとお酒とラーメンでも食べたであろうニンニク臭さの混ざった臭いが漂いだした。目は虚ろで、行先を伝える呂律も回っていない。
ヒック、というこの身体的衝動が胃の中のブツを引き上げ、終いには吐き出されるような気がしてならなかった。
ヒック!
走り出して5分以上が経過したが相変わらず後から聴こえてくる。
乗るなり静まった男はイスに浅く腰掛けて体を沈めているため、バックミラーには姿が写らない。
大丈夫なのだろうか。
ヒック!
再び聴こえてくる。
ンッ!
何かを抑えたような喉の奥の響きも聴こえた。
喉元まで来た何かを抑えるような不気味な音。
ヒック!
男のしゃっくりは止まらない。
まだ目的地までは10分以上掛かる。
その間に吐かれたら堪ったもんじゃない。ヒックによって胃から引き上げられたゲロには、きっとニンニク臭いラーメンと酒の消化物が混ざっていて、吐き出されてしまえば惨憺たる光景と異臭が車内に広がってしまう。
次第に脇や背中が熱くなっていくのを感じた。
ヒック!ンッ!
さらに勢いは増していく。
頼むから吐かないでくれ。
願うようにバックミラーに目を移すと、光に照らされ薄っすら浮かぶおでこが写った。
おそらくスマホを触っている。
それくらいは余裕があるということだろうか。
ヒックック!
再び聴こえてきた。今度は連続的だった。
ヒックックック!
しゃっくりのテンポが変わった。
笑っているようにも聴こえる。
スマホからは何も聞こえていない。
ヒックック!
やっぱり笑っているのだろうか。
バックミラーで様子を確認したいが、写りにくい姿勢のお客様を無理に見ようと動作するのも気が引ける。
ヒックック!
やはり笑っているように聴こえる。
これ以前の音も笑っていただけなのだろうか。
もしこれがただ笑っているだけなら安心できる。
頼む。笑い声であってくれ。
ヒック!ンッ!
分からない。どっちなのか。
吐かれたくない。
吐かれずに最後まで送り届けたい。
ボリュームの絞られたラジオの音が微かに聞こえる。
すると、
「ッッヒッヒッヒ!」
声にはならない、喉の奥から出るキッとした音の笑い声が聞こえた。
良かった。やっぱり笑っていただけだった。
あと5分ほどの目的地までは安心して、
「ンッ、ンッ!」
何かを抑えた。やっぱり怖い。
しゃっくりの止まらぬお客だったが、最後まで無事に送り届けられた。