苦情処理になった”おもてなし”文化をどう後始末するつもり?
「クレーム対応」と「苦情処理」って違うんだよ
身近でそんなことが起きたものだから、タイムリーにそんな話題が目の前に次から次へと降ってくるので、わたしも言葉にしてみよう。
ともかく大切なことはこれね
クレームは権利の要求、苦情は「なんか満足させてよ」の感情処理
クレームはすなわち「権利」のこと。
要望や要求に応じて、どこまで・どのように・だれが引き受けるかを判断する交渉の機会です。だから、それが判断できる人と話せることもだいじ。
苦情処理は、要望や要求の中身は実は重要では無くて、「気持ちを満足させてくれ」という感情を苦情の形で表出する行為なんですね。苦情になって表出するまでには【ちょっとした不満】が積もり積もっていて、それがあふれそうなギリギリのときに、「ちょっとした不満」がひきがねになります。でも、一応は社会人で大人だから、苦情がある証拠をそれっぽく並べ立てます。ほんとうのところの不満の正体が見えにくいのです。だって本人にもわかっていないのですから、
店にやってくる苦情も、苦情を訴えてくる”その人”の事情を明らかにしようとすれば、根深い社会問題にまでつながるほどのことだと想像することができます。でも、それを引き受けることができるのは、専門の医療チームくらいでしょう。
その表層の「不満をぶつける」行為の矛先は、日常生活で関わる「誰か、不満を言える相手」です。
その相手であることを、誇りに思うか、そこに感謝するかで、接客の態度は確かに変わります。それを「おもてなし」とか「ホスピタリティ」といって、接客業はモチベーションをあげます。
苦情を受けて、ちりぢりになった自尊心や、存在意義をどうにかひきあげるためにそれは役に立っています。
そう。苦情って言うのはとても理不尽なものだから、それに耐えるメンタルを育成するというのが、目下の課題だったわけなのでしょうね。
でも、それでいいの?
それで本当に、【人権】は守られているのかな。
「おもてなし」だの、「ホスピタリティ」だの、誰のため?
日本って本当に尽くして、尽くして、尽くしまくる接待が世界で喜ばれている国な感じがするんだよね。日本各地の温泉旅館が人気なように、世界で人気の温泉旅館が「日本」ってこと。そんな感じ。
仕事に誇りをもって、基本的人権も棄ててない「人」と、尽くして尽くして尽くしまくる自己犠牲の「人」の違いは、これだと思うんですよ。
「嫌(いや)」が言えるか、言えないか
「いやです」。
「できません」。
断ることができるか、できないか。
これで、全然、違うんだなぁ。
個人の尊厳を護る
自分の尊厳を護ることに誠実ならば、同時に、自分以外の存在の尊厳を護ることも知っています。
”苦情処理ができるわたし”に酔って、高みを目指すのもいいけれど。
それもそれでひとつの芸を極めるようなことでもあるけれど。
そんな「おもてなし」や「ホスピタリティ」が、「他人の気持ちをてのひらの上で転がす」支配コントロール欲求の成れの果てに向かったら、しょうもないんですよ。
それは、もったいないんだよ。
もったいない。
心の中で見下していたり、自分はエライって気持ちが優っていたら、そんなの全然、心温まる話でもないし、心優しい、懐の深い世間ってことでもないし、嘘の仮面ばかりかぶってしんどいんじゃないかなぁ。
しんどくなったら、今度は、自分自身が、どこかで苦情をぶつける側になるかもしれない怖さを抱えることになるんじゃないかなぁ。
民主主義と苦情処理って相性が悪いんじゃない?
民主主義的精神で臨むと、苦情とか、苦情処理とか、どうも想定できない気がする。設定で「無いな」ってなる。
苦情ではなく、「クレーム」になるからね。
クレームであれば、さっき書いた通りのことで、要求や要望に「できる・できない」や「代替案の提案」など建設的な対話ができるということを意味するわけだからね。
ましてや自分自身のかかえる「不満」は、自分の内面のトラブルだととらえることで、自尊心をみずからまもり、個人の尊厳をまもり、心の平和を保とうとするよね。ちなみにそれは「戦わない」ということじゃない。
いやなことは、いやと言うし、できないことはできないと伝える。するべきでないことは、するべきでないと、意見を表明することができる人間関係や仕組みであることが当然の設定になっているわけだ。
…なぁんて、思うんだけどね。どう?
ほのぼのしたものよ
民主主義とか、対等とか、人権とか…。そんなに難しい顔してやってるものでもないのよ。
そうよね、いやだよねぇ
わかる、わかる
そんなときもあるよねぇ
また、できるときにおねがい
こんな日もあるさ
だいじょうぶ、だいじょうぶ、待ってるから
次があるから
あなたのペースでいいからね
ほのぼのとしたものよ、きっと。