#7「動き出す」ってなによ?
季節的なワードなのか、ここ最近、「#不登校」のキーワードで目に止まるつぶやきや記事のなかで登場します。
「動き出す」のフレーズに、なんだかそわそわする気持ちを隠すことができません。
「なぜ?」って気持ちかな。
なにを待っているんだろう。
なにを期待しているんだろう。
なにを理想にしているんだろう。
『ホームスクールをあたりまえに生きてる』エッセイ 第7弾
「動き出す」ってなによ?
気が付けば、第6弾から一か月が過ぎていてびっくりしました…。
実は#7は別のテーマで下書きがあったのですが、またまた変更。先にこのテーマで書きます。
ホームスクールをあたりまえに生きてる感覚に居ると、「不登校」の言葉にとても違和感を覚えるものです。なぜなら、それはどうしたって【学校軸】【学校中心主義】から派生していることだからです。
だから、当然、このフレーズにも違和感を覚えます。
「不登校を選んだ」
「学校に行かない選択」
我が家は「不登校を選んだ」とは言いたくないなって正直思っています。
それは「不登校」の背景にはただ単に「学校に行かない」以上のことがあるからです。個々人でみればそれこそ千差万別です。
不登校を選んだわけじゃない。そうならざるをえない状況があったには違いないのです。「そうならざるをえなかった」。それが事実です。
「学校に行かない選択」というフレーズも本当にもっとも違和感を覚えています。(「学校に行かない選択」。確かに、確かに学校には行ってないし、行こうとも(行かせようとも)思わないんだけども、そうなんだけども…)って気持ちです。
我が家のホームスクール宣言年は2008年頃です。そのころ言われていたのが「明るい不登校」でしたが、まったく共感しませんでした。この本に出会って、自分のその感覚は決しておかしいものではないと思えてほっとしたのを覚えています。この本の内容には衝撃と共に深い共感を覚えていました。
当時はオルタナティブ教育の流れからある「ホームスクール/アンスクーリング/ホームスクーリング」とは別に、フリースクールから派生した「ホームエデュケーション」が知られるようになっていました。
学校に登校しない代わりの不登校支援を主軸にしたフリースクールがありました。そこに在籍するも通えない、通わない在宅フリースクール生の事情は、地理的な条件(近隣に通えるフリースクールがない)のほか、「学校に登校しない」のと同じ背景がありました。「家に居てもいいんだよ」「それはホームエデュケーションって言うんだよ…」と。
それは、大人たちが子どもたちに向かって「わたしたちはあなたたちの味方だよ」と態度を見せるための安易な手段に映りました。
その態度に救われた家庭やこどもたちと、そうではなかった家庭とこどもの違いはなんだったのでしょう。今もそれを考えます。
今現在も同じ思いの交差が、不登校の現場では起こっているでしょう。いえ、さらに複雑に分岐しているようにも思います。でも、それらの”違い”に丁寧に目がむくことはないように感じます。
我が家は、普通教育に自由教育を選びました。
学校教育を選びませんでした。
ですから、学校に登校してはいません。
ですから、学校に戻ろうとがんばることもありません。
「学校のように」や「学校と同じように」という気負いも必要ありません。
現行の日本の教育制度上、一条校(学校)の在籍生徒である間は、学校を利用する権利を持っていますので、それを行使することは可能です。普通教育に学校教育を選んだ家庭とその子どもたちへの配慮は忘れません。
学校の先生方も、「不登校児童生徒を受け容れる」ための不登校支援ではなく、普通教育を受けている生徒たちとして受け容れてほしいなと思います。特に公立の学校は地域の人々との連携もあるわけですから、地域に住むさまざまなこどもたちが行き交う場としての学校の役割があってもよいのではと思うのです。公教育の役割に適っているでしょう。
子ども会は確かにその役割を担っていたはずですから、社会教育の側面だと考えることもできるかもしれません。いずれにせよ社会の責任として必要だということです。
「動き出す」の反対は、「動いていない」「静止している」ということになるのでしょうか。
それを私も考えたことがあります。
生きている今、「動いていない」なんてことが果たしてあるのでしょうか。
こどもたちにそんなことはありませんでしたが、私自身は「動けない」と自分で感じている時期がありました。一番信頼してほしいと願っていた家人に話が通じないと感じていた時、そういう経験がありました。
でも、どうしたって自分の意思ではとめられないこの心臓の鼓動を感じたとき、私は「これが今、私の”動いている”状態なのよ」と思ったのです。
まったく心がなににも動かなくても、身体も文字通りちっとも動かせなくても。それでも、命は止まっていませんでした。どんな状態であれ、その状態が、そのときの私が”今、動いている”状態がそうなのだということだけでした。
学校に通っている姿を【標準】だとして、そのスピードにのっていることが「動いている」とみなされていないだろうか。
その基準は、こどもの望むものですか。大人の都合ではありませんか。社会の都合ではありませんか。
誰に合わせることなく、ひとりひとりの命の進む速度で歩いていい。
だって、みんな違う。それが個性ですから。
それができない社会で、「ひとりひとりが生きている」ことって、どういうことになりますか。それはいけないことですか。
自分が自分自身で在ること
それが始まりのように思うのです。それが自立ということだと思うのです。そして《自分が在る》からこそ、自分を律して、《他者の存在》を認めることができるようになります。それが自律です。
目指すのは、《自立と自律》です。
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ホームスクールをあたりまえに生きてる
「ホームスクールをあたりまえに生きてる」シリーズを集めたマガジン 2022年5月スタート。 更新中。基本的に全文公開としています。 気に入…
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