つまんね、と思いながら社会人のたしなみとしてバチェラーを見る話
どうして、世の中の人たちはバチェラーシリーズが好きなんだろう。それが本当に不思議だった。
ひと昔前は、恋愛バラエティでは「あいのり」や「テラスハウス」などが流行った時期もあった。でも、それは高校生とか大学生向けというか…大の大人が見るものではない、幼稚なものといった扱いではなかっただろうか。
それなのに、バチェラーシリーズの視聴を勧めてくる人たちは、決して若年層ではない。むしろ30代くらいのちゃんとした、社会人である。
それが、みんなしきりに勧めてくる。バチェラーシリーズを視聴していることをアピールしてくる。
「たわしさんも見ましょうよ、面白いですよ」みんな口を揃えて言う。
これを複数の友達に愚痴ったら、彼女らも同じことを感じていたらしく、「バチェラー視聴圧」の悪口で盛り上がった。
ある友達は、バチェラーシリーズの視聴を熱心に勧められて1話〜2話見たらしいが、何も面白く感じず、断念したそうだ。
「薄くない?」と言う彼女の感想に、私も同意した。
バチェラーそのものは面白くない
そもそも、バチェラーシリーズの作りが、エンタメとして面白いものになっているか、個人的には疑問に思っている。
彼女ら彼らは、職と名前、顔しか分からない状態でスタートする。そして異性同士は寝食を共にしないので、撮れ高になる場面は、デート中か同性同士のトラブルでしかない。そして、デートの時間も、そもそもが短い時間なので、取り繕った会話になりがちである。これは出演者の問題ではなく、番組の作りの問題だ。
(面白くなりようがないよな…..)
そう思いながら、スタジオトークをスキップした時に、ふと思った。
ああ、これってスタジオトークが、この番組の本質なんだな
私は、芸人の岡村の、ホモソーシャルな価値観が苦手なので、スタジオトークはスキップしていた。
でも、バチェラーシリーズにとって、「〇〇という対応はどうか」「〇〇というところが素敵」など、自分を棚にあげて品評する、あの時間こそが本質なのかもしれない、と思った。
社会人の"雑談の先”は難しい。
社会人の会話は難しい。もちろん、場当たり的な、その場を楽しげに過ごす雑談スキルは、社会人スキルとして大抵の人が身につけているだろう。
でも、中長期で関係が継続する場合、雑談だけでは物足りない。
8時間も拘束される仕事においては、職場の人間について情報を知りたい、相手の価値観を知って安心したい、と言う場面も多い。
価値観の吐露をするには、自分の人生の話をするのが手っ取り早い。家族構成、職場、住むところ、時間やお金の使い方、エトセトラエトセトラ…。
ただし、社会に出てしばらく年数が経つと、人生に違いが、とても大きな違いが生まれてくる。少し踏み込んだ話をするだけで、相手も自分も、パーソナルな地雷を踏み抜きかねない。
無難な話だろうと思って、相手のお子さんの話を振ったら、実は子供の素行で悩んでいた、とか、第2子の不妊で悩んでいた、とか、よくある話である。
視聴後のトークを通しての、コミュニティを確立するのが目的
そう考えると、バチェラーシリーズはとても便利なツールだ。なぜなら、自分が傷付かずに、他人をこき下ろせるから。自分の恋愛事情を晒さずに、恋愛への価値観という、もっともパーソナルな部分を晒せるから。
バチェラーシリーズを視聴していることをアピールするのも、しきりに勧めてくるのも、要するに「無難に仲良くなれる会話ツールを用意しましたよ/これを使って仲良くしましょうよ」という表明に過ぎない。
つまり、視聴者が勝手なスタジオトークをすることを前提とした番組の作りになっている。
リアルの会話ツールとして、バチェラーを活用してない視聴者も、ほとんどの人が、SNSやネット記事で感想を検索したはずだ。
それも、自分の中のパーソナルな価値観を確認して、共有して、同じような意見に同調することで、擬似的なコミュニティを作ることが目的である。
これまでの恋愛バラエティは「恋愛ドラマ」の延長線上だった。でも、バチェラーシリーズは、「合コン」の延長線上にある。
結局、やっていることは、合コン後の反省会なんだと思う。それを、誰に対してもできる、便利なツールがバチェラーシリーズだと、私は理解した。
義務のように見るバチェラー
バチェラーシリーズは、私にとっては、いまいち面白さが分からない。人間関係にやや神経質な気質の私にとっては、大の大人が言い争ったり牽制したりしている場面を見るのは、苦痛ですらある。
でも、社会人のたしなみだと思って、毎回健気に視聴している。30代の独身女性の社会人にとって、相手も自分も安心して話せるパーソナルな部分が、とても少ないから。
プライベートに踏み込まれたり、遠慮されて気まずくなるくらいなら、多少つまらない番組を頑張ってみる方がまだマシだよね、そんな気持ちで毎回視聴している。