【小説】太陽のヴェーダ 先生が私に教えてくれたこと(17)
「美咲っ?」
二回目のコールが鳴る前に雪洋が出る。
「先……」
先生、と言いかけたところで手からケータイが抜けた。
「先生―? ワタシー!」
言ったのは瀬名だ。
美咲が呆気に取られていると、一瞬の間を置いてケータイから怒鳴り声が聞こえた。瀬名が耳からケータイを離して笑っている。
「こんな短時間にユキの怒鳴り声何回も聞くなんて、俺もついてるなー」
『こんな短時間に私を何回も怒鳴らせないでください!』
美咲の耳にも怒鳴り声が届いた。雪洋が怒鳴るなんて、本当に珍しい。
それもこれも、美咲の身を案じてのこと。
「一生懸命すぎるよ、先生……」
瀬名の笑い声に掻き消されるほどの小声でつぶやいた。
「じゃあ三つ目の助言だ。いいか、今回のことは彼女に何も聞くな。そっとしとけ」
受話器から雪洋の声は漏れてこない。どういう反応をしているのだろうか。膝を抱く腕に力が入る。
「彼女、今も必死に自分の力で乗り越えようとしている。だから今は黙って見守れ。――わかるな?」
雪洋がなんと返事をしたかはわからないが、瀬名が「いい子だ」と言っているから恐らく納得してくれたのだろう。美咲の膝を抱えていた腕の力が、ようやく抜けた。
「んじゃそういうことで、またねセンセー! ――はいはい冗談だよ。あーうるせー。天野さん代わって」
瀬名が耳に指を突っ込みながら美咲にケータイを返した。
「……もしもし」
「美咲っ、……良かった。すぐ迎えに行きますから」
心配かけてすみません、今から帰ります、と言う間もない。
「あ、あのっ、先生」
「なんですか?」
雪洋は今にも家を飛び出しそうな声だ。
「……安全運転、してくださいね」
その言葉と、その後の一瞬の間は、雪洋が平常心に戻るのに十分な時間だった。
「こんなふうにさせた張本人がよく言う。心配しないでそこで大人しく待っていなさい」
きっと雪洋はいつものように笑みをたたえている。そういう声だ。
美咲もなるべくいつもの声で、なるべく明るい声で応えた。
「はい、待ってます」
電話を切ると、瀬名がくつくつと笑った。
「あいつ、天野さんと会ってから人間味が出てきたよなあ」
独り言なのか美咲に聞かせているのか、どちらともつかない言い方をして、瀬名がまた笑った。
インターホンがけたたましく鳴る。
はいはい、と瀬名が玄関を開けた。
「美咲は」
「血相変えてってそういう顔を言うんだなあ。ユキ、ちゃんと安全運転で来たのか?」
「美咲に何もしてませんか」
「お前俺をなんだと思ってんだよ」
二人のやりとりが聞こえる。
美咲は痛む足で立ち上がって、雪洋との対面に備えた。
「美咲」
雪洋の凛とした声が近づく。
「何、もう俺のこと眼中にないの?」
瀬名のからかう声。
雪洋がリビングのドアを開けた。
瀬名のスウェットを着て立ちすくんでいる美咲を見て、雪洋は「ああ……」と片手で口元を覆って嘆いた。
「なんだよその俺に汚されたみたいなツラは」
「いえ」
雪洋が歩み寄ると同時に、美咲の目線は下へ落ちた。
視界に雪洋の足が入る。
目の前に雪洋がいる。
まだ顔は合わせられない。
黙ってうつむいていると、雪洋の足が一歩前に出た。と同時に、腕を引かれる。
倒れる――と思った瞬間、雪洋にしっかりと抱きしめられていた。
「心配しました。無事でよかった」
瀬名の目が気になったが、ふわりと鼻腔をくすぐる雪洋の匂いに、ひどく落ち着く。
どこからどう見ても無事だろ、と瀬名がタバコをくわえながら野次る。
「雨に濡れたんですね。体は痛くないですか? 寒気は? 髪は乾かしましたか?」
額に触れ、髪に触れ、いつも以上に美咲を気遣う。その様子に、胸が痛む。
うつむくと涙がどんどん溜まって、すぐに表面張力の限界に達しそうだ。
「……泣いているんですか?」
先生、そんなに優しくしないでください。
私はあなたをずっと恨んでいたんです。
先生、今さらあのときの医者だなんてずるいです。私はもう、あなたをずっと、尊敬しているんです。
いつの間にか、……慕っていたんです。
この気持ちを、どうしたらいいですか――
「先生、私、落ちついたら少しずつ前に進みますから。でも今は、もう少しだけ、うずくまっていてもいいですか……」
雪洋の手が、美咲の頭に優しく触れた。
「もちろんですよ」
この優しさも、五年前の責任故だろうか。
だとしたら、あまりに寂しい。
「一緒に帰りましょう」
優しい声。
雪洋はきっと穏やかに微笑んでいる。
その顔を、まだ見ることができない。
でも――
「はい、先生……」
まだ雪洋から、離れたくないと思う。
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【小説】太陽のヴェーダ
どう見ても異常があるのに「異常なし」しか言わない医者たちに失望した美咲。悪化した美咲に手を差し伸べたのは、こうさか医院の若き院長、高坂雪洋…
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