【小説】太陽のヴェーダ 先生が私に教えてくれたこと(15)
第3章 救急搬送
●ネームプレート
「ただいまぁ……」
薄暗い家の中へ声をかける。
美咲にしては珍しく早い帰宅だった。
「先生はまだお仕事かな?」
今日は足もさほど痛くない。
こんな時くらいなるべく家事をやっておこうと、リビングへ寄る。
電気をつけ、適当に荷物を置いて、キッチンでヤカンを火にかける。湯が沸くまでの間、部屋を移動して、雨が降るからと室内干ししていた洗濯物を畳む。
「夕飯、何作ろうかな……」
考えながら畳んだ洗濯物を持って、二階の雪洋の部屋へ向かう。
誰もいない部屋にノックして入り、電気をつける。片付いた雪洋の部屋が照明に照らされた。
洗濯物を置く前に、部屋の奥にある本棚へ興味が湧いてしまう。
奥へ進み、クローゼットの前を通ったとき。きちんと閉まっていなかったのだろう、わずかに浮いていた扉が空気の流れを受けて、ふわりと開いた。
「相変わらず医学書ばっかり……」
前にも本棚を眺めたことがあったが、並んでいる物に変わりはなさそうだ。雪洋の本棚には洋の東西を問わず、医学書や薬剤の本が並んでいた。
「漢方、医食同源、……アーユルヴェーダ? このへんはきっと、おじいさんから受け継いだのね」
古めかしい紙の本がずらりと並ぶ。
雪洋の祖父は東洋医学に長けていたと、瀬名が以前話していた。雪洋が食事や生活の仕方に気を使うのも祖父の影響だろう。
「小説とか読まないのかなあ」
本棚をのぞき見るのは、実は気が引ける。
その人の内面をのぞき見る気がするから。
遠慮しつつも、雪洋がどんな本を読むのかは興味がある。今や美咲にとって、雪洋はただの主治医ではなく、師匠のようなものだ。
立ち居振る舞いのお手本である雪洋が好んで読む本とはどんなものか。
もう一度隅々まで本棚に視線を走らせる。
「やっぱ医学書しか置いてないわ。先生の心の中は医学ばっかりなのね」
面白みのない本棚にため息をつく。
「お、ようやく何か発見」
持っていた洗濯物をベッドの上に置いて、美咲は本棚に収まっていた分厚い本に手をかけた。これも医学書のようだが、珍しく付箋が挟んである。
しかも一箇所だけ。
それがまた興味をそそる。
「先生、ちょっとだけ心の中、のぞかせていただきます」
詫びてから本を開く。
そこに記されていたのは――
顕微鏡的多発血管炎に関することだった。
紫斑や網状皮斑の写真、症状の解説、薬の投与に関してなど。所々にある手書きの印は、美咲の症状と同じものにつけられている。
一瞬戸惑ったが、他の患者のことかも知れないと冷静になってもう一度見る。
発症年齢のところには「五十代から六十代以上に多い」とあるが、矢印を引いて「二十二歳前後」と書きつけてある。
「私だ……」
別に雪洋の日記やラブレターを見たわけではないのだが、じわじわと顔が赤らんだ。
雪洋が真摯に向き合ってくれていることは百も承知だが、こんなところにもそれが表れていると嬉しくもあり、気恥ずかしくもある。
「先生ってなんでこんなに、一生懸命やってくれるんだろう」
自分は変わり者だから、と言っていたことがあるが、美咲はそうは思わなかった。普通の医者がやらないこと、やれないことを、雪洋がやっているだけなのだ。
「先生ありがと」
本を元通り棚に戻してそっと感謝の言葉を述べたとき、ピーッという甲高い音が台所から聞こえた。
「あ! ヤカン!」
踵を返して戻ろうとしたそのとき、
「いたっ!」
クローゼットのふわりと浮いていた扉に激突した。同時に、扉の内側に取り付けてある小物入れからネクタイピンやら安全ピンやらがばらばらと落ちた。
「やっちゃった……」
ヤカンの笛はこれでもかというほどけたたましく鳴っている。
ぶつけた額をなでながら小物を急いで拾い集めると、ネクタイピンや安全ピンと一緒に、小さな長方形の物――ネームプレートも落ちていた。
雪洋がつけ忘れたのだろうか、と拾い上げると、ネームプレートに刻まれた文字が、美咲の動きを止めた。
え?とつぶやき、目を見開く。
そこにある文字を、美咲はうわ言のように読み上げた。
「高坂総合病院……皮膚科……高坂……雪……洋……」
美咲は座り込んだまま微動だにできなかった。ただネームプレートの文字だけを、見つめていた。
「高坂……総合病院……」
階下からは、ヤカンの笛が鳴り響いていた。
『高坂総合病院前、高坂総合病院前に到着です――』
バスのアナウンスが鳴る。
覚束ない足取りで、美咲はバスから降りた。
バスに乗る前に降り始めた雨は、いつの間にか土砂降りになっていた。
傘も差さずに雨の中を進む。
調子が良かったはずの足は、冷えきって痛みを生んだ。
美咲の目の前にそびえる高坂総合病院。
どうしてここに来てしまったのか――
ヤカンの火を止めた時、雪洋が医院の建屋から母屋へ渡ってくる気配があった。帰っているんですか、と美咲を呼ぶ声に、思わずバッグを引っつかんで縁側から外へ出た。
雪洋から逃げるように。
ふらふらと歩いていたら、停留所の案内に「高坂総合病院前」という文字を見つけた。
見つめているうちにバスが来た。
だから乗った。
それだけだ。
美咲を降ろしたバスが走り去る。
足が痛い――
バッグの底から折り畳みの杖を取り出す。
コツ、コツ、とアスファルトを突く音を聞きながら、美咲は病院へ近付いた。
照明の落ちた玄関が見える。
傘も差さずに美咲は立ち尽くした。
高坂総合病院をじっと見据えて。
「先生、嘘ついてたんだ……」
高坂総合病院にはいなかったと言った。
「いたんじゃない。ここに……」
高坂総合病院、皮膚科、高坂雪洋――
頭の中でその言葉がぐるぐると回る。
医院で初めて雪洋に会ったとき、ネームプレートを見て違和感を覚えた。名字と病院名が同じだということに気付き、もっと前にも同じような感覚を抱いた気がする、と思った。
今ならそれがいつのことかわかる。
高坂総合病院の、皮膚科診察室。
白衣の医者のネームプレートを見た時だ。
――五年前の。
「先生……」
あの時もそう。
名字と病院名が同じだと思ったのだ。
「先生が……」
信じたくない。
信じたくはないが――
――異常無しですね――
「五年前の、あの医者……」
雨が降り注ぐ中、美咲は虚ろな目で天を仰いだ。
どれほどそこに、立ち尽くしていただろうか。
服の裾からは雨水が滴っている。
体も冷え切って、膝も固まった。
歩き出す気力もない。
車が一台、すぐそばに停まった。
「天野さん?」
車中の人物に呼ばれる。
雨音で満たされていた頭が、その声で急に現実へ引き戻された。
「天野さんだよね? どうしたの、こんなところで」
瀬名だ。
勤務が終わって帰るところなのだろう。
車から降りて、ずぶ濡れの美咲に傘を差した。
この寒い季節にサンダルでコートも着ず、雨の中ただ突っ立っているのは遠目でも目立っただろう。
美咲は虚ろな目のまま、黙っていた。
「とりあえずこっちへ」
濡れた背中を押され、軒下へ案内される。
「どうしたの本当に。体は大丈夫? 雪洋に電話――」
「やめてくださいっ」
叫んだ美咲の顔が青ざめていたのは、雨に濡れたせいだけではない。
「先生には……連絡しないでください」
瀬名の目が美咲のバッグへ向いた。
中でケータイが震えている。
さっきから何度もだ。
相手はわかっている。
でも、一度もケータイに出ていない。
――出たくない。
「なんで。ケンカでもした?」
美咲が口をつぐんでうつむくと、瀬名は短くため息をついた。
「一応僕も医者だし、君は雪洋の患者だ。このまま放っておくことはできない。君が何も言わないなら、僕は雪洋へ連絡するよ?」
美咲は苦渋の色を浮かべ沈黙していたが、やがて暗い目をして口を開いた。
「ネームプレートを見つけました」
「ネームプレート?」
「……高坂総合病院、皮膚科、高坂雪洋」
瀬名は一瞬の間を置いてから、ああ、と嘆いて前髪を掻き上げた。
美咲が何を知ったのか、全てを悟ったようだった。
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【小説】太陽のヴェーダ
どう見ても異常があるのに「異常なし」しか言わない医者たちに失望した美咲。悪化した美咲に手を差し伸べたのは、こうさか医院の若き院長、高坂雪洋…
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