【小説】太陽のヴェーダ 先生が私に教えてくれたこと(33)
●再会
「いわんこっちゃない」
高坂総合病院、皮膚科診察室。
恒例の、瀬名の問診である。
「言った通りじゃないか、彼」
いつもは月一回程度の通院だが、先日不調で訪れたため、あまり間をおかずに今回の通院となった。
「でもいい方向に転がったと思いますけど」
「そうかな。君はいよいよ逃げ場がなくなったわけだよ」
「そんな……誠実に向き合うだけです」
「向き合う? 何と? 彼と? 違うよね。君は君自身と向き合うべきだ」
自分の気持ちとはもう何回も向き合っている。
これ以上何があるのか。互いをさらに知り合っていく方が最善だと思うが。
「彼は、迷いなく真っ直ぐ君を向いている」
「はい」
「君は体のことを話したにも関わらず、まだ悩んでいる」
「……はい」
「断りたいんだろう?」
ドキッと鼓動が高鳴る。
「そんなことは――」
「じゃあ付き合えばいい」
「そんな安易にっ」
「断る理由が見つからない?」
「そういうことじゃ……! ただ、せめてもっと早く出会っていればなって――」
ほらね、と瀬名が美咲を指差した。
「君の中で、答えはもう出てんじゃない?」
もっと早く、雪洋より早く出会っていれば――
いや、雪洋に出会わなければ、今の美咲にはなっていない。沢村との出会いもない。
「まあいい。それより天野さん。そろそろ一年くらい経つよね、雪洋と離れてから」
今度は雪洋の話だ。
それはそれで心臓に悪い。
「そろそろ顔見せてやったら?」
「でも私、この前も紫斑が出たし――」
「たしかに不調だったけど、かつての君ならあの程度で病院には来ないよね。それにすぐに安定させた。よくやってる。問題ないよ」
瀬名の言葉は素直に嬉しく思った。「安定した」ではなく、「安定させた」という言葉が。
「だからあいつに見せてやってほしい。その姿を」
雪洋に会える。自分の目が輝くのがわかってしまうほど、胸が躍る。
「ついでに、雪洋にも相談してきたら? 沢村クンのこと」
輝きが一気に萎える。
「……先生には言わないでください」
「どうして?」
「応援するに決まってますから」
ほらまた、と瀬名が美咲を指差し、にやりと笑った。
「それはつまり、応援してほしくないってことなんだろう? 雪洋には」
*
雪洋の家。一年ぶりだ。
美咲の休みが日曜日に当たったときを狙って、思いきって会いに来た。今日は医院も休みのはず。
母屋にいるだろうかとインターホンに指を近付けたとき、視界の隅で懐かしい人影をとらえる。
雪洋だ。
庭に雪洋がいる。
美咲の顔が途端に笑みで崩れた。
「先生―っ」
庭の物干し竿に真っ白なシーツをかけていた雪洋が、美咲の声に反応して静止した。
「せん、せい!」
もう一度雪洋を呼ぶ。
雪洋がゆっくりと振り向いた。
その目が見開かれてゆく。
美咲は深くお辞儀して顔を上げた。
懐かしいのと嬉しいのが入り混じって、魂が発光するかのようだ。光が体の輪郭を越えて、内から外へ放たれてゆく。
「先生、お久しぶりです」
「美咲……!」
軽く静かな足取りで雪洋に近づきながら、初めてここを訪れたときの自分を思い出し、今の体と比べていた。
手指はまだわずかに赤みが残っているが、コブは出ていない。紫斑も滅多に出なくなったし、体調は良い位置で安定している。
だから今日は、思いきってスカートを選んだ。
真っ白なスカートから伸びた足は、血色のよい肌色をしている。網目模様もない。
そして螺旋の指輪は、今も変わらず中指にある。
「ああ、いいですね」
雪洋がまぶしそうに目を細めた。
「先生、お元気でした?」
「美咲こそ。……信じられない。もう二度と会えないと思っていました」
「必ずまた会いに来るって言ったじゃないですか」
「だからって一年も主治医に音信不通にする人がいますか」
「ごめんなさーい。でも先生だって電話もメールもよこさなかったじゃないですか」
「それは――美咲に外の世界で幸せになってほしかったからです。いつまでも私が縛っておくのはよくないと思ったから」
「じゃあ、お互い様ですね」
からからと笑うと、雪洋もつられて一緒に笑った。まぶしそうに目を細めて美咲を見ている。
「元気そうですね。体、痛くないですか?」
「ずーっと調子がいいです。たまには不調にもなりましたけど、瀬名先生からちゃんとコントロールできてるって褒められたんですよ。体も全然痛くありません。夢みたいです!」
「瀬名先生から様子は聞いていましたが……本当に、もう立派に一人で歩いているんですね。今こうして美咲の明るい顔を見て、私は本当に――」
詰まるように言葉が途切れ、雪洋は美咲を強く抱きしめた。
「――ありがとう、美咲」
雪洋の声が耳にかかる。
一年ぶりに感じる雪洋の声と、ぬくもりと、匂い。
「先生のおかげです」
美咲も雪洋を抱きしめた。
離れていた分、互いの存在をたしかめるように。
ようやく、二人を縛っていたものから解放されたのだと、美咲は感じていた。
それに、と雪洋が腕を解く。
「私が言ったとおり素敵な女性になりましたね」
素敵な女性――
雪洋に言われたことが何より嬉しい。
「『三十人のうちの一人』にも会えたようですし」
雪洋が微笑んだ。
――え?
瞠目して雪洋をまじまじと見つめる。
「おめでとう。私の願いも叶いそうですね。外の世界で幸せに――」
「待って先生! なんでそれ知ってるんですかっ?」
「私の情報網を甘くみてはいけませんよ」
何が情報網だ、瀬名に決まってる。
「先生、一体どこからどこまで瀬名先生に……いや、いいです……」
何から何まで伝えているに違いない。
こんな掛け合いにすら、懐かしくて体の芯がうずうずと喜びを噛みしめているのがわかった。
家の中へ通され、リビングのソファーでアイスティーを飲みながら近況を語る。
「美咲の表情、とってもよくなりましたね。美しく咲く――名前の通りになりました」
照れ笑いを浮かべ、アイスティーのストローに口をつける。
「彼も見る目があるじゃないですか」
ゲホッとむせるが、雪洋はお構いなしに話を続ける。
「何を迷っているんだか、美咲は」
しれっとして雪洋もストローに口をつける。
「……先生は、私にどうしろと」
精一杯の虚勢を張るが、雪洋は涼しげにアイスティーを飲んでいる。
「いい人らしいじゃないですか、彼」
「いい人ですよ。体を理解してくれて、とことん優しい、器の大きい人ですから」
雪洋が唇をかすかに横に引いたが、その表情は笑っているのかそうでないのかわからない。
「――先生、今でも……あの人のこと、お好きですか?」
目は合わせられない。グラスの氷を見つめながら返事を待つ。雪洋から、微笑むような、かすかな吐息が聞こえた。
「はい。今も変わらず、思っていますよ」
今度は美咲が、目を閉じて息を吐く。
「その人と、一緒になりたいと思いますか」
少しだけ間をおいて、雪洋は答えた。
「そうすることが、許されるなら」
雪洋の笑みに哀愁がかすめる。
「そうすることで、互いが幸せになれるのなら」
手が出せない人――
かつて雪洋はそう言っていた。
雪洋を見つめる。
「……その気持ち、ちょっとわかる」
「美咲、今度またうちにいらっしゃい」
「転院ですか?」
「それもしてほしいとこですけど。久しぶりに二人で出かけましょう」
「えっ、いいんですか?」
間髪を容れずに、素直すぎるほど喜んでしまった。恥ずかしくなったが、雪洋も嬉しそうに笑っているのを見ると、どうでもいいかと思えてくる。
やっぱり、好きだなあ……
あらためて雪洋への思いを実感する。
だがこれは、報われることのない思い。
わかっている。
「十五日に花火大会があるでしょう。裏の丘からよく見えるんですよ。覚えてますよね。美咲がよく散歩に行ってたところです」
ピシッ、と顔が固まるのが自分でもわかった。
十五日の、花火――
「あ……その……日は……」
ああ、と雪洋が察した声を出す。
「これは野暮なことを。彼からも誘われていましたか」
一緒に行きましょうって、言ってほしい。
花火、一緒に見ましょうって……
でもわかってる。
先生はそんなこと、絶対に言わない。
「じゃあ彼の方に行きなさい」
――そう言うと、わかっていた。
「でも、先生とも……見たい……」
「子供のようなことを言わないで。いいから彼と楽しんできなさい。もう約束したんでしょう?」
「……はい」
「だったら約束は守りなさい。ね? 美咲」
私の偉大な存在の言うことなのに、ひどく胸が痛い。
「……はい、わかりました」
泣きそうになるのを堪えて、笑顔で言えたことは、自分でも褒めたいと思う。
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【小説】太陽のヴェーダ
どう見ても異常があるのに「異常なし」しか言わない医者たちに失望した美咲。悪化した美咲に手を差し伸べたのは、こうさか医院の若き院長、高坂雪洋…
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