「所有の牡牛座」の私がガツンと物を減らして人生変えた本
「所有の牡牛座」とも言われる牡牛座の、この私が、ガツンと物を減らすきっかけとなった本がある。佐々木典士氏の『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』がそれだ。
――やられた。心の深いところをえぐられ、所有欲どころか虚栄心やら執着といったものまで根こそぎ削ぎ落とされた。今までにも片付けの本は読んだことがあるし、それなりに実践もしてきたが、この本は私の核の部分まで揺さぶってきた。
これによって、今までなかなか手放せなかった物たちへの執着がごっそりと取れる。絶対に手放せなかった本でさえも。――世界の見え方がまるで変わってしまった。
考えてみたら何十回も読み倒した本たちは、すでに私の中に入っているから、手放したとて支障はないのだ。それでも迷ったときは、ネットで図書館の蔵書を検索。市内の図書館で持っているなら、読みたくなったときは借りればいい。
部屋がどんどんシンプルになってゆく。畳の見える面積が広がり、収納ケースやカラーボックスがいくつもスッカラカンになった。
清々しい楽園と化していくのを見た当時の夫も、感化されたのか、今まで執着していた物をどんどん手放していった。この元夫も牡牛座である。
こうやって楽園化に勤しみ、1ヶ月ほどが経った頃。さらにガツンと物を減らす出来事が起こる。私の中で、「出ていこう」「別れよう」と決心がついたのだ。
衝動的な決心ではない。これでも決定的な亀裂が入ってから4年間は、苦悩しつつも関係修復に努めてきた。カウンセリングも受けた。いい先生で、このとき霧が晴れるような、世界が輝いて見えるような境地へ至ったのだが――ここへきて再び、大きな亀裂。
「よっし、出ていこう」
とても清々しく心が決まった。
もうここは、私の楽園にはならない。
出ていく決心がついたことで、「もうこれ以上は手放すかどうか決められん」と保留にしていた本たちを、さらに減らすことに成功する。
バッグ1つで生きていく人に憧れはあるが、さすがにそこまでは叶わず。だけど本に関しては「手元に置きたい1冊」が決まれば、他は手放してもいい気がする、という心境までこれた。
最終的に、「一生持っていたい本だけ」「私の楽園に置きたい本だけ」という選び方をして、今までで一番本を減らした。
人間関係も同じ。「これ以上は決められん」と4年間すごしていたが、ようやく結論が出た。一生ともにいたい人か、私の楽園にこの人がいるのを許せるか、と自分に問うて。
*
その後。困ったことに、あろうことか、信じられないことに、小説を書く手まで止まってしまった。
感覚を研ぎ澄ませて、自分の心をなぞるように書いた作品は、書いているうちから心を浄化してくれたし、数年後に読み返しても劣化を感じることは少ない。
だけどすべての作品がそういう結晶化に成功したものではない。心のなぞり方が甘いというか、純度が低いというか、少なからず煩悩のようなものが入り混じった作品だってある。
恐らく、『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』を読んだことで、煩悩入り混じり部分をガツンと突かれてしまったのだろう。自分の無意識の浅ましさが見えるようになってしまい、羞恥し、当たり前に持っていた小説を書く情熱が見事に消えてしまった。恐ろしい本だ。
スランプとか、そういうモヤモヤカオスな感じではない。朝日を浴びて消滅してしまった鬼の如くである。「卒業」と言うには違和感がある。まだまだ全然やりこんではいないから。「ステージがかわった」と言った方がまだしっくりくるだろうか。
とりあえず「小説を書かなければ」という執着もなくなってしまったので、今は清々しく距離をおいている。今後また書くとすれば、ちゃんと心をなぞって、結晶化に成功するようなものでなければならないだろう。
小説だけではなく、noteや日々のLINEの文章にも影響は及んでいる。「この言葉はなくていいな。これは虚栄心だ」という手直しをよくするようになった。
今の私の書くものが、小説でもなく、エッセイでもなく、ただただ個人的な「日記」であることも、いろんなものを削ぎ落とされた結果なのだろう。
読む前と後で、こんなに見え方が変わってしまうとは。まったくもって恐ろしい本である。
おかげで私は今、望んでいた暮らしを日々送っている。