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【小説】雪鬼女狩りの村(五)八年前
翌日。影親は弥平の家の近くまで来ていた。どうにも吉兵衛のあの言葉が気になってしょうがない。
なつめと真之介に狂気の手が伸びている――
そう思うといてもたってもいられない。
悶々としながら、影親は家の前まで来てしまった。来たもののどうしたものかと思いながら庭をのぞく。今日もなつめが雪かきをしたのだろう。雪はきちんとかき分けられ、人が通るのに十分な道ができていた。
誘われるようにその道に歩を進めると、奥からザク、ザクと雪を切る音が聞こえてきた。なつめである。
「精が出るな」
「これは影親様。今日もこの辺りで狩りですか?」
「いや……まぁ。近くまで来たのでどうしているかと思ってな」
「見ての通り毎日雪かきです。影親様、何もありませんがどうぞ上がって下さいな」
「あ、いや……」
そういうつもりでは、と言いかけたが、
「では上がらせて頂こうか」
思わず口をついていた。
弥平は不在らしく、白湯と干し柿をつまみながら二人はしばし「今日は雪が止んだ」だの「この干し柿は家の裏にある木になったものか」だの、なんの障りもない世間話をした。
話しながらも影親は、奥にいるかも知れない真之介の気配を捕らえようと耳をそばだてていた。だが奥からは一向に物音一つせず、人の気配も感じられない。
半ば心ここにあらずの世間話もネタが尽き、影親はいつの間にか奥の間へ続く戸を見つめていた。
なつめはくすりと笑って、影親から次の言葉が出るのをゆったりと待っていた。
「真之介は……いないのか?」
視線を戸に向けたまま影親がぽつりと言った。
「さて。先ほどまではおりましたが」
影親はまだ戸を見つめている。
「呼んでみますか?」
「あ、いや」
なつめは眉を上げてわざとからかうような口ぶりで言ったが、影親は冗談と気付かず生真面目に慌てて反応した。
「いや、……いや、いい」
「よろしいのですか?」
なつめがくすくすと笑う。
ポリポリと頭をかいて影親は沈黙したが、やがてぽつりと口を開いた。
「なつめ殿」
「はい」
「その、村の者たちは……良くしてくれるか」
「はい。皆さん親切にして下さいますよ」
「そうか。……近頃何か、変なことを言われたりしないか」
「特に何もございませんが」
「そうか。ならば良い」
良い、と言いながらもどこか視線が定まらず落ち着かない。やがて視線を落とし、口を開いた。
「……この村には、少々奇妙な風習があるようだな」
なつめは、どのような? という表情で小首を傾げた。
「その奇妙な風習を、非道だと思うのはよそ者の俺だけなのだろうか」
なつめはゆっくりと目を細めて影親を見つめた。
「それは、雪鬼女に関する風習でございますか?」
ああ、と影親は低く答えた。
「私もこの土地の者ではありませぬ故、ここの風習についてはいささか思うところはございますが……。どうかなされましたか?」
「……よくない話を聞いてしまってな。その、そなたたち親子が並外れた美貌故、……雪鬼女ではないかと」
なつめは黙って聞いている。
「気を悪くしたのならすまぬ。俺はどうも遠まわしに話すのが苦手で」
「構いませぬ」
なつめは菩薩のように微笑んでいる。
「雪鬼女と疑いをかけられることが、この村ではどれだけ危険であるかを知った。それでそなたたちの身が心配になって来てしまったのだ。あのように……あのように残虐なことをするなど……! 人の道にもとる行為だ!」
抑えていた声に怒りが混じり始めた。
「私どものことなど気にかけて頂いて、本当にありがとうございます」
「いや、俺は……納得できんのだ。雪鬼女が災いを呼ぶとか、見つけたら殺すのだとか、それらしい娘がいたら火炙りにするだとか……許せんのだ! 雪鬼女ならば殺して良いという考えが! 雪鬼女と我らと一体何が違う? 生きている者という意味では何も変わらぬではないか!」
抑えきれない感情が溢れ、声が荒ぶった。
「猟師の俺が言うのもおかしいと思うだろうが、猟師は――少なくとも俺は、獣たちの命を決していたずらに奪っているわけではない。足りれば無駄に多くは獲らぬ」
「わかっております。生きる糧ですもの」
「しかしこの村の者たちの考え方は、雪鬼女か否か、だ。人にもいろんな者がいるように、雪鬼女にも人となりというものがあろう。犬や猫にだって性格が表れるのだから。そういったことを無視して、雪鬼女なら問答無用で殺せとは……。雪鬼女の中にも、たまには性根の悪い奴もいよう。しかしそれが人間だったら、そう簡単に殺せという話にはなるまい」
一息に喋り、影親は湯飲みの白湯を喉に流し込んだ。
「……すまぬ、うまく言葉にならぬ」
「いいえ。影親様のおっしゃりたいこと、よくわかります」
影親の言葉には詭弁や偽善というものはない。
本心からの言葉だった。
心を乱して言葉を吐くほど、何故かなつめは嬉しそうな顔をしていた。
「俺が昔出会った少女が……聞いた話では雪ん子らしいのだが。その子はあの時殺されかけていた。それだって理由は、雪ん子だからだろう。その子に何か悪さしたのかと聞いたが、何もしていないと答えた。村で火炙りにされた女子たちも皆、濡れ衣だろう。俺から見ればどちらが心ない化け物か……」
「お優しいのですね影親様は」
「そう……だろうか」
「影親様はきちんと一人一人を見ようとしていらっしゃるもの。人であっても雪鬼女であっても、等しく接していらっしゃる」
「……吉兵衛にも珍しい奴だと言われたな」
化け物の肩を持っている、と。
大きく一つ、ため息をつく。
「なつめ殿、俺の考えはおかしいか?」
「いいえ。私はそうは思いませぬ」
なつめは目を伏せて首を横に振る。
口元が優しく微笑んでいる。
「ぶしつけなことを尋ねるが」
「はい」
「そなたや真之介を怒らせてしまうかも知れないが」
「あら、なんでしょう」
なつめが穏やかに受ける。
「あの子は、その……」
聞くべきか聞かぬべきか、気持ちの整理はついていない。だが聞かずにはいられない。
「何年あの姿でいる?」
なつめの顔からは微笑みが消えたわけではない。不愉快な素振りを示したわけでもない。
全く無関係の者だったら今の質問の意図すらわからないだろう。だが影親はごく微妙な空気の変化を感じ、なつめに響いたことを確信する。
他人が踏み込んではいけない領域を明らかに今、踏み込んだのである。
わけのわからないことを、と流しもせず、なつめは無言のまま笑みを浮かべていた。無視しているのではなく、影親の言葉を受け止め、適切な答えを探しているように見えた。
「何故」
つ、と視線をまっすぐに影親に向ける。
「そのようなことをお尋ねになるのですか?」
なつめの視線は影親の心の中まで全て見通しているかのようだ。
――遠まわしな物言いをしている場合ではないな。
姿勢を正し、影親もまっすぐに視線を返す。
「先ほどの、俺が昔出会った雪ん子と真之介が……よく似ているのだ。いや、あれは少女であったが。顔立ちは瓜二つと言って良い。人と同じに成長するならあの少女はもう十五、六の頃だろう。だが真之介は……まだ九つ」
一息に話し、大きく息を吸う。
それを静かに吐き出し、今度は一言一言をゆっくりと紡ぐ。
「俺は、真之介が八年前に出会った少女ではないかと思っている」
お互いの目を見つめたまま沈黙の時が流れる。
「もし」
影親の視線をとらえたまま、なつめがゆっくりと口を開いた。
「本当に真之介がその子だとしたら、どうなさるのですか?」
なつめの目に力がこもる。
「どこか遠くへ、連れて行きたい」
なつめの目にまっすぐな心で答える。
「遠くへ?」
「真之介は……雪ん子なのであろう?」
なつめは黙っていた。
「今の姿が偽りで、本当は女子で、……いずれ雪鬼女に成長するのであれば、このような村にいてはいけない」
黙したまま、静かになつめが目を閉じる。
「……男の格好をさせて名前を変えているのは弥平とそなたの考えか? 村の者たちの目をあざむくためか。だがたとえ男の格好をしていてもいつまでも隠し通せるものではあるまい。それに――」
前に見た、火炙りの跡の光景が脳裏に浮かぶ。
「ここにいては、人として何かが狂わされてしまう」
助けを求める娘たちの叫びまでも、聞こえてくる。
「俺は、真之介にここにいてほしくない。あの子が本当の姿で自分らしく生きていけるように、雪ん子や雪鬼女という存在がこれほどまでに忌み嫌われていないどこか遠くへ、俺はあの子を連れて行きたい」
なつめの閉じた目のまつげに、小さな涙の玉が見えた。
「決して思いつきで言うてるのではない。ずっと考えていたことだ」
はい、となつめが応えた。
「影親様のお心、確かにお受け取り致しました。こんなに想っていただいて、あの子の母としてこれほど感謝することはありません」
なつめがこれ以上はないというほどの、慈愛と母性に満ちた微笑みを見せた。その目が少し、潤んでいる。
「おっしゃる通り。確かに真之介は女子です。あの子と二人、この村の近くで暮らしている時にここの雪鬼女への風習を知りました。夫弥平と出会ったのもその頃です。そのような村へ入ることは、悪戯に命を縮めてしまうかも知れないと迷いました。でも女二人で生きてゆくのは、決して楽なことではありません。悩んだ末に、私はあの子に男の名を与え、着物も男物を着せることにしました」
なつめはつらさと悲しみが入り混じった表情をした。
「本当はそんなことさせたくありません。でも、女子が皆とは違う不思議をおこしていれば、この村ではどんな扱いをされるか」
影親はうなずき、なつめを見つめた。
「では……」
「影親様の先ほどの問いにお答え致します。私と出会ってからの八年間、あの子はずっと子供の姿です。成長はしておりませぬ」
少し微笑んで、なつめは告白した。
そうか、と影親は目を伏せた。
外ではまた、雪が降り始めた。
「真之介は、そなたの実の子か?」
なつめの表情が少しだけ歪んだ。
「すまない、このようなことを……」
「いえ」
怒った様子はない。
「実の子です」
変わらず穏やかな口調でなつめが答える。
「そうか……」
湯飲みに視線を落とす。
「そう思って一緒にいます」
落とした視線を、再びなつめに向けた。
なつめは、強く、優しく、そして揺るぎない凛とした母の顔をしていた。
「……そうか」
「あの子は、私の実の子ではありません。夫の子でもありません。私とあの子もまた、八年前に出会いました。私は――」
一瞬の間をおいて、
「子ができない体でしたので」
静かに言葉を紡いだ。
「それが原因で舅に疎まれ、前の夫に離縁され、里に戻りました。父は厳しく、母は優しく悲観的な人でした。……いづらくなり、里を出ました。そしてあてもなくさまよっている時に、あの子と出会ったのです。あの子もまた、独りでしたので……」
「それで一緒にいるのか」
なつめはうなずいた。
「そうか……。辛いことを語らせてしまったな。すまない」
「いいえ、どうかお気になさらず。――今の夫と知り合い、妻となったのは三年前のことです。真之介のこともかわいがってくれて、あの子も夫になついております。今、とても幸せに暮らしております」
「弥平殿はこのことは」
「知りません。私とあの子が実の親子ではないなどと、露ほども疑っていないでしょう。しかしいつかはきっと、成長しない我が子を不審に思う時が来るはずです」
そうか、とつぶやいてなつめを見る。
弥平は平凡な容姿で、美貌のなつめとは不釣合いに見えた。一方のなつめはたとえ子連れであっても、気立てが良く、美貌にも恵まれていたことで今の弥平との暮らしがあるのだろう。
それでも子に恵まれない女人の心痛はいかばかりかと、影親は推し量った。
なつめは今までの苦痛を見事に微笑みの下に隠していた。苦痛を経験し、それ故に今の夫、子に深い慈愛を注いでいる。
なつめの菩薩のような魅力の秘密はそこにあるのかも知れないと影親は思った。
「何故でしょうね。あの子と初めて会ったとき、とても愛おしく思えたのです。この子も独り、何をしたわけでもなく世間から疎まれている。それ故に、せっかく幼く愛らしいのに自分らしさを見失ってしまって。あまつさえ……銃で撃たれてもそれを己の運命だと受け入れて……」
「銃で――。それではやはり真之介はあのときの、白い着物の少女なのだな?」
なつめが何もかもを認めるように、うなずいた。
「私が出会った時、あの子は真っ白な着物を着て倒れておりました。脇腹のあたりに傷を負い、真っ赤な血に染まっておりました」
「では俺の前から姿を消した後に、そなたと出会ったのか」
「はい、そのようです。自分は災いを呼ぶ身だからというのが、私を遠ざけようとした理由のようです。どうせ捨てるのだろう、殺すのだろうと。一緒にいればいずれ同じ目に遭うから私に構うなと」
白い着物の少女が、血に染まりながらも、虚ろな目で拒む姿がありありと浮かぶ。
「でも一緒に過ごしたこの八年間、あの子は決して村の者たちが言うような災いも悪さもしておりませぬ。もっと子供らしく、悪戯くらいしても良いのにと思うほどです」
影親の脳裏に、全く子供らしくない、真之介の大人びた立ち居振る舞い、語り口調が思い出された。
笑った顔は一度たりとも見たことがない。
なつめの前では笑うのかも知れないが、他の者へは警戒心の方が勝っている。
無理もない。このような悪習はびこる村では。
「影親様と庭で初めてお会いした日、真之介の様子がいつもと違いました。
恐らく前に出会っていることを思い出したのでしょう」
影親は目を閉じ、八年前の風景を脳裏に描いた。
「あの時、吹雪の中で銃声を聞きつけて行ってみると、猟師に銃を向けられた少女がいた。すでに撃たれた跡もあった。猟師は当たり前のように、再び少女に引き金を引いた」
なつめも目を伏せて聞いていた。
「だが……俺が先に、その猟師を撃った」
その言葉になつめの目が影親に向いた。
「言い訳はせぬ。俺は人を殺めてしまった。その者にも悪いと思っている。
もし家族がいたのなら、……家族にも申し訳ないことをした」
なつめは非難するでもなく、ただじっと影親の目を見て聞いていた。
「だがどうしてもあの状況で黙ってはいられなかった。あんなに幼い少女が何故命を狙われねばならぬ。猟師は今にも引き金を引きそうであったし、何よりあの子が全く逃げようとしない」
思い出すといらつきを覚えた。
「少しだけ言葉を交わしたが……あの子は己が忌み嫌われている存在として受け入れていた。ひどく卑屈になって……自分は殺されて良い存在なのだと、俺に言った」
なつめの目が、また潤んだ。
「そんなことで良いのか? 幼い少女がそんなふうに思ってしまう、そんな悪習が蔓延って良いのか? そんな世であの子は……自分らしく生きて行くことができるのだろうか? あんなに自分を抑圧して……それで幸せに生きていけるとは、到底思えぬのだ!」
留まりきれぬと、涙が一粒だけ、なつめの手の甲に落ちた。
「だから俺は、真之介をどこか遠くへ連れて行きたいと思ったのだ。
それぐらいしか俺にはできぬが」
「いいえ。影親様にお会いできて、私はあの子の母としてとても嬉しいのです。あの子をこんなにも思ってくれているのですから」
潤んだ目を上げ、影親を見つめてくる。
「影親様なら、あるいは……」
「あるいは?」
「あの子の、心の奥底の氷を、溶かすことができるやも知れませぬ」
「心の……氷?」
ええ、と言ってなつめは笑いを漏らした。
「あの子、ぶっきら棒だと思いません?」
「まぁ、そうだな。特に俺に対して」
ふふ、となつめが笑った。
「本当は甘えたいのですよ、あの子」
「俺に? まさか」
なつめはまた、ふふ、と笑みを漏らした。
「間違いありません、母の勘です。ただ、今までのことから他人に心を開くということがなかなかできないのです」
「ああ」
「私が知る限り、今までにあの子が心を寄せた人はただ一人。完全に心を許したわけではありませんでしたが……」
ほう、と影親は興味深そうに眉を上げた。
「それは?」
なつめの視線が影親の目をとらえた。
そしてまた、ふふ、と笑った。
「八年前に、猟師からあの子の命を守ってくださった方のようですよ」
一瞬の間をおいて、影親は「そうか」と視線を外した。
「一緒に来いと言われたのがよほど嬉しかったのでしょう。本当は着いて行きたかったのですよ、あの子。生まれて初めて言われた言葉ですから」
「ならば何故あの時、俺の前から姿を消したのだ」
「信じて一緒に着いて行きたかった。けれど信じてもどうせ捨てられるか殺される。裏切られないとしても、いずれ迷惑をかけてしまう……。自分の運命に臆病になっているから、一緒に行きたくても行けなかったのです」
「くそ……っ」
あのように幼いうちから無邪気さを失っていることが不憫でならない。
「でも名を知らぬままでしたので、先日影親様とお会いした時は何度も私に名を聞いてきましたのよ。家族以外にあれほど興味を持ったことは今までありません」
少女のように笑って、なつめは当時の様子を聞かせた。
影親はまた、そうか、とだけつぶやいて頭をかいた。
「なつめ殿」
「はい」
「その、弥平殿と一緒にそなたもこの村を出た方が良いのではないか? そなたは雪鬼女ではないのだろうが、しかしいつ疑われるとも限らぬ」
なつめは微笑んだまま目を軽く伏せた。
「たしかに私は雪鬼女ではありませぬが。そうですね……そうした方が良いのでしょうね。でも」
顔を上げて影親をまっすぐ見つめる。
「私は夫とともにいます。夫にとっては故郷ですから、やはり故郷というものは離れ難いものです。ですから夫がここにいる限りは、私もここにいます。私は弥平の妻ですから」
凛とした姿がまぶしい。
そうか、と影親は返すしかなかった。
「お心遣いありがとうございます影親様」
「いや。……あぁ、長居してしまったな。馳走になった」
影親が土間に行き、履物に足を通す。
「また是非いらして下さい。あの子に会いに」
「ああ、わかった」
「あの子のこと、どうかよろしくお願い致します」
履き終えた影親が、後ろを振り向いてなつめと向き合った。
「ああ。――わかった」
揺るぎない、芯の通った声で答えた。
なつめは深く礼をし、影親が見えなくなるまで見送っていた。
「しん、のす、け」
なつめが奥の部屋の前で我が子を呼ぶ。
ほどなくして真之介がうつむき顔で部屋から現れた。
「あなた隠れるのが上手ねぇ。物音ひとつ立てないで」
「……影親様はもう帰ったの?」
「たった今お帰りになりましたよ。追いかけてみますか?」
とぼけた顔で真之介の顔をのぞき込む。
真之介は頭をぶんぶんと振り、
「いい」
短く応えた。
「ずっとここに居たのですか?」
「……うん」
「私達の話は聞こえました?」
「ううん、何も聞こえなかったよ」
「嘘おっしゃい。うちの戸は話し声が何も聞こえないほど頑丈ではありませんよ」
なつめの意地悪な笑みに真之介はしばし目を泳がせ、思い出そうとする仕草をした。
「よくは聞き取れなかった。大きな声で怒鳴っていたところは聞こえたけど。他は何を話しているかはわからなかった」
「あら。では大きな声のお話を聞いて、あなたはどう思ったの?」
怒鳴るように、吐き出すように語っていた影親の言葉。
「……腹を立ててくれていた。あんなふうに私のことを思ってくれる人が、この世にいるなんて――」
真之介の頬に、涙が一筋、伝っていった。
「真之介……」
「あ、これは……っ」
慌てて涙を拭う。
「良いのです。良いのですよ、真之介。私も影親様のお話を聞いていて、何度も涙が込み上げました」
なつめは膝をついて真之介を抱き寄せた。
「とても良いお話をしてくださいましたよ。あなたにも全部聞かせたかった。やはり私が思っていたとおり、影親様はとても誠実で、良いお方でした。母は今、とても嬉しくてしょうがないのですよ」
「でも、やっぱり本当の気持ちなんてわから……」
「真之介」
ゆっくりと名を呼ぶ。
「前にも話したでしょう? あとほんの少しで良いから、影親様に心を開いてご覧なさいと」
真之介が、ぷい、とそっぽを向く。
目を合わせない。
「あなたが今涙をこぼしたのは、あの方の気持ちがあなたに響いたからです。あの方の誠実さにあなたの心が震えたのです。その気持ちを大切にしなさい」
真之介はまだ迷っているようにうつむいた。
「あの方と言葉を交わしてご覧なさい。きっと今よりもっと、お人柄があなたにも伝わるはずですよ」
眉間にしわを寄せて、真之介は少し迷っている顔をしていた。
「もしも……」
なつめが優しく語りかける。
「もしもあの方が来いとおっしゃったなら、迷わずについて行って良いのですよ」
「何言って……」
「今度こそ、ね」
真之介の目の光がわずかに揺れた。
「わ、私は……」
頬が紅潮する。
「おっ母と一緒にいるよ」
表情を隠すかのように、なつめにしがみついて胸に顔を埋めた。
なつめは小さくため息をついたが、真之介の痛みも十重承知。小さな背中に手をまわし、ぎゅうっと抱きしめた。
「ありがとう、私の可愛い子」
*
「う……」
夕方、弥平と納屋へ薪を取りに行った真之介が、突然体を押さえてうずくまった。
「なんだ真之介、お前またどこか痛いのか?」
弥平が息子の異変に気付いて駆け寄る。近頃真之介は体を押さえて痛がることがよくあった。
「一体どこが痛むんだ?」
「膝とか腕とか背中とか……肩も胸も痛ぇ。あちこちだ」
歯を食いしばり、苦悶する。
「我慢できる痛みか?」
弥平はおろおろするしかなかった。
「うん、大丈夫だ。おっ父、心配しないで」
「無理すんなよ。我慢できないくらい痛いときはすぐに言えな。お医者を呼んできてやるからな」
弥平は息子を労わり、背中をさすってやった。
今まではすぐに治まったが、今日はなかなか痛みが引かない。しかしあまり大袈裟になって本当に医者が来てはまずい。
真之介は痛みが引いたふりをして、その場をやりすごした。
次回
雪鬼女狩りの村 第六話 真の名