【小説】太陽のヴェーダ 先生が私に教えてくれたこと(16)
●責任
窓の外は大雨。
うるさいほどの雨音は余計な雑音を払い、かえって心の内にこもることができた。
暗く生ぬるい海の底にいるようで、できることならこのままずっと漂っていたい――
雨音に紛れて電子音が鳴り響く。
美咲は暗い海の中で細くまぶたを開けた。
「はいよ、もしもしー」
瀬名の軽快な声が聞こえ、途端に美咲の意識が暗い海の底から引き上げられた。
今自分がいる場所を思い出す。
――瀬名の自宅マンションのリビング。
抱えていた膝から顔を上げると、目の前の窓は激しすぎる雨で真っ白になっていた。
「何だお前、女房に逃げられた亭主みたいだな。しっかりしろよセンセ」
隣室で話している声が聞こえる。
電話の相手は雪洋に違いない。
抱えた膝に、再び顔を埋める。
瀬名に風呂と服を借りた。
ぶかぶかのスウェットからは瀬名の匂いがする。
雪洋以外の男の匂いに、落ち着かない。
「だったら縁側から出たんじゃないのか? 近所に回覧板でも届けてんだろ」
今さらながら、家の状況を想像する。
玄関には美咲の靴。駐車場には美咲の車。
台所では笛を鳴らしていたはずのヤカンが静かに湯気を吹き、窓が開けっ放しの縁側からはサンダルが消えている。
「じゃなかったらアレだ。宇宙人にさらわれ――ハイハイごめんごめん。ユキの怒鳴り声なんて何年ぶりだろうな。彼女だって大人なんだからそのうち戻るって」
瀬名がからからと笑っている。
だが美咲の気配だけが残され、本人はいない――
そんな状況では雪洋が心配するのも当然だ。
「そんなに取り乱して、お前らしくないなあ」
不意に瀬名の声音から茶化す色が消えた。
笑みは含んでいるが、雪洋を諭すように語る。
「いいかユキ。俺がこれから言う三つのことを、その沸騰した脳みそに刻みつけとけ。一つ、天野美咲は無事だ。雨の中偶然見つけて、俺の家で丁重に保護している。間違っても警察なんかに電話するなよ」
居場所を教えてしまった。
美咲は自分の膝を強く抱きしめて眉をひそめた。
「二つ、天野美咲が自分から連絡するまで、お前はそこから動くな。――彼女だって色々あるんだ。詳しい事情は知らないが、思い悩んで衝動的にふらっと家を出たと言っている」
これで足止めになるだろうか。
何に思い悩んでいるか、雪洋には口が裂けても言えない。
「三つ、……いや、それはまたあとで言うか」
瀬名が焦らすから雪洋がまた怒鳴ったのだろう、あーうるせえ、と瀬名がぼやいている。
「いいから少し頭冷やせ。連絡は今日中にさせる。泊まらせるわけにもいかないし。いや俺はいいよ? でもユキに恨まれたくないしさー」
当然です、とでも雪洋は言いそうだ。
案の定、はいはい冗談だよ、と瀬名が軽く流している。
話が終わると、瀬名はリビングのドアを開けた。
「雪洋、すげー心配してるよ」
瀬名はどこか楽しそうだ。
美咲は抱えた膝からわずかに顔を上げた。
「……まだここにいさせてください。先生の顔を、とても冷静に見ることはできません」
「それは、雪洋が五年前の医者だから?」
美咲の胸がドクンと高鳴った。
「君があのときの医者を憎んでいて、雪洋がそれを知りながら正体を隠していたから?」
「あの病院にはいなかったって、先生言ったのに……!」
「嘘をつくには理由がある。そうまでして成し遂げたいことがあった。……混乱するのはわかる。でも少し落ち着いて気持ちの整理をしてごらん」
ギリッと歯噛みしてかたく目をつむる。
何も聞きたくない。何も考えたくない。
心を閉ざしつつある美咲に、瀬名は笑顔を消した。
「君はまた、同じことを繰り返すつもりかい?」
同じこと――
失望して、黙って姿を暗まして、体調を悪化させる。
「君は今まで、雪洋の何を見てきたの。雪洋から何を教わってきたの」
――美咲はね、いわゆる人生の岐路に立っていると思っていい。白い道か黒い道か、どちらを歩くかは、美咲次第なんですよ。
「白い道……か、黒い……道……」
うわ言のように言葉を発した美咲を認めて、瀬名の顔にいつもの笑みが浮かんだ。
「天野さん、雪洋に連絡してくれないか。これは君のためでもある」
「……少し、もう少しだけ、待ってください」
いいよ、と瀬名はリビングを出ていった。
助けてください――
そう言ったあの日から、雪洋との生活が始まった。この人なら助けてくれると思った。
今までの医者とは違う。この人なら――
そう信じることができたから、全てをあずけた。
ずっと信頼し、尊敬し、慕い、事あるごとにその思いは深くなった。
でも、「今までの医者とは違う」と思った雪洋こそが、「今までの医者」だった。
「あのときの医者」だった。
でも、今この身の内にあるのは、雪洋の言葉、雪洋の教え。雪洋に出会えたからこそ救われた。
雪洋に出会わなければ、今頃たどる道は真っ黒で、希望はとっくに絶たれていただろう。
でも、「五年前」の雪洋は「異常無し」と言って、その後の五年間を破滅に導いた。
でも――
思考は堂々巡りだ。
「でも」ばかりが何度も浮かぶ。
知らずにひどいことも言ってきた。
五年前の医者は嫌いだと。
――美咲、いいですか。
これから先、今よりもっと辛く、耐えられないことがあるかも知れません。どうしても辛い時は、うずくまって泣いてもいいんです。
でも気が済むまで泣いたら、顔を上げて、少しずつでも歩いていくんですよ。
はい、先生。
じゃあ今は、うずくまっていてもいいですか――
リビングのドアがカチャリと鳴って開いた。
「ブラックで大丈夫?」
瀬名がマグカップを差し出す。
コーヒーの香りと、熱そうな湯気が立っている。
「……いただきます」
瀬名はソファーに腰を下ろすと、ゆっくりコーヒーを一口飲んで、話し始めた。
「雪洋もね、家出したことがあったよ。五年前のことだ」
初耳だ。
あの雪洋が、そんな衝動的なことをするのか。
「あいついきなり取れるだけの休暇取ってさ、しばらく泊めてくれってきたもんだ。感情が読みにくいやつだが、俺には自分を責めているように見えたよ。ここであいつは何日も考え事をしていた。考えて、考えて、考え抜いて、今度は辞表を出した」
相槌を打つでもなく、無反応でいる美咲へ、瀬名は構わず続けた。
「『私は祖父のようになりたかった。一人一人をしっかり診る祖父のような医者に。それを忘れていました』――そう言って雪洋はこうさか医院を継いだ。ま、いきなり辞めたもんだから当然院長から……あ、雪洋の親父ね。俺も一緒に大目玉くらったけど」
コーヒーの水面を見つめ、美咲は口を開いた。
「自分を……責める?」
瀬名がニッと笑う。
「雪洋はある患者と出会った。その患者をひどく傷つけてしまったと言っていたな。二週間後の再来を待ったが、その患者は二度と現れることはなかった。あいつが辞表を出したのはそのあとだ」
美咲がコーヒーの水面から視線を上げた。
まさかその患者というのは――
「あいつが辞めるとき頼まれたよ。『天野美咲という女性が来たら知らせてください』――ってね」
「……だから私を転院させたんですか」
「そう。あの体では酷だと思ったけど、あいつが考え抜いて決めたことだし、俺も異論はない。君が真相を知るのが、ちょっとだけ早かったけど」
雪洋はもっとあとになって打ち明けたかったはずだ。美咲がもっと良くなってから。
「正直俺はね、何もお前一人が背負うことはないと言ったんだ。他の病院でも同じことを言われたんだからと諭したけど。納得しなくてね」
「おかげで私は随分先生に救われました。やっと私を助けてくれる人に会えた、この人なんだって……。でも同時に、どうして先生はここまでしてくれるんだろうって、ずっと思ってました。今回のことでようやく……腑に落ちました」
マグカップを両手で握りしめると、コーヒーの水面が美咲と同じに震えた。
頬には、窓を流れる雨のように涙が伝っている。
「先生が私にしてくれることは全部、五年前の『責任』なんですね」
責任――
胸の奥で暗雲が渦巻き、落ちた涙が服を湿らせてゆく。
瀬名がテーブルにマグカップを静かに置いた。
「天野さん。それはもう、憎いだけの涙ではないよね?」
美咲の動きが止まった。
まばたきをも忘れて。
憎い――だけではない。
この心にあるのはもう、憎しみだけではない。
憎しみ以外の、もっと尊いものがある。
だからこそ、雪洋の今までの言動が単なる「責任」からくるものだと思いたくなかった。
そんな義務の塊のような言葉で接しているのだとは、思いたくなかった。
「いずれ雪洋が自分から話すだろう。君にはどうか、早まらずにじっくり考えてほしい。あいつは全てを受け入れるから、君が出ていくと言えばそれで終わる。でもそれではいけない。君のためにも、あいつのためにも」
このまま離れてしまうのは、どちらにとっても何も得るものはない。どちらも、立ち直ることはもうないかも知れない。
「すまない。雪洋の患者である君も大事だけど、俺はあいつのことも大事なんだ」
「わかってます」
美咲が五年前と同じことを繰り返せば、雪洋はまた自分を責めることになる。
「今は何も言わないつもりです。私の中でまだ、整理できてませんから。衝動的な言葉で……後悔はしたくありません」
「ありがとう。後悔したくないって思ってくれるんだね」
美咲はケータイを手に取った。
「……先生に連絡します」
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【小説】太陽のヴェーダ
どう見ても異常があるのに「異常なし」しか言わない医者たちに失望した美咲。悪化した美咲に手を差し伸べたのは、こうさか医院の若き院長、高坂雪洋…
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