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【小説】雪鬼女狩りの村(十)裏切りの弥平
「おやこれは、旦那」
山々に響く、強く低い声。
咄嗟に振り返ると、背後に見覚えのある男が立っていた。
「……吉兵衛」
ざわり、と体が警戒する。
「駆け落ちかい? いいねぇ。そんな極上の女どこで捕まえたんだい?」
相変わらず下品な笑いで、燐を上から下まで舐めるように眺め回す。
「吉兵衛、こんな朝早くからどうした?」
……気付いているのか、吉兵衛。
「いや何、真之介をね、探しに来たんでさぁ」
「真之介を? 何故」
気付いているのか、吉兵衛。
「なつめが火炙りにされたのは知ってるかい? その途中で真之介が消えちまって、心配になってねえ」
「へえ……それは心配だな」
吉兵衛は――
「旦那、どこ行ったか知らねえかい?」
「さて、知らぬが――」
――気付いていない。
「旦那、嘘はいけねえなぁ」
にたり、と吉兵衛が笑った。
「真之介をかっさらったのは旦那じゃねえのかい? ――なぁ!」
そう呼びかけた相手は、吉兵衛の後方に控えていた男――
「まさか……っ」
弥平だった。
おっ父、と言いかける燐を、吉兵衛に気付かれぬよう制する。今のこの姿を見て、真之介と思う者はまずおるまい。
「なつめが処刑されたあとも吹雪がやみやしねえ。だから三沢様がなぁ、俺たちをけしかけて躍起になって探しておるのよ」
「――何を」
「なつめの子を。雪鬼女の子を探せ、男でも構わぬってな」
「馬鹿げたことを……っ!」
後ろの燐が身をかたくした。
「それで真之介が戻ってきたら知らせるよう、この弥平に頼んでおいたんでさぁ」
弥平は吉兵衛の声に怯えるように、肩をすぼめてうつむいていた。
「ありがてえことに、戻ってきた真之介が何やら床に伏してるって弥平が教えてくれたんでね、すぐに行ったんだがまたいなくなっちまった」
「何故……っ。弥平殿、そなたなつめ殿が殺されたばかりだというのに、自分の息子を売ったのか!」
びくっと弥平の肩が上がる。
あんな気の弱い、穏やかな男が何故こんな裏切りをするのか。――燐が影親の背中で震えている。
吉兵衛が代わりに口を開いた。
「この男はなつめに惚れていてなぁ。とにかくなつめさえ女房でいてくれればそれで良かったんだよ。たとえ雪鬼女と言われようが何だろうが。だがなぁ、旦那」
げへ、と吉兵衛が笑いを漏らした。
「『雪鬼女かも知れない』てえのと、『雪鬼女だ』てのは、まったく違うんだよ。わかるか?」
「……どういうことだ」
「惚れたなつめは雪鬼女かも知れないと言われても、なつめと暮らせたらそれで弥平は幸せなんだよ。――実際、雪鬼女じゃなかったしな。だがなぁ、真之介はどうだい。まったく成長しない上に、本当は女だっていうじゃねえか」
知って……いたのか。
「雪ん子はやっぱり暑いのが苦手なんだろうなぁ。いつだかの夏に、あのガキがふらふらになりながら川に水浴びしに行ったんだと。心配してあとから様子を見に行ったら、息子に付いてるはずのもんが付いてなかったんだとよ」
「何故今になって! ずっと本当の親子以上に可愛がっていたではないか!」
「なつめに女房でいてほしかったからだ。なつめが死んじまった今、誰が好き好んであの薄気味悪いガキの面倒見るってんでい」
「やめろ!」
にたり、と吉兵衛が影親を見据えた。
「本当なのか、弥平殿。あんなに……っ」
昨夜だって燐に着物を渡したじゃないか。
父としての優しさをあんなに与えていたじゃないか!
「この男は臆病なんだよ。いや、この村のもんは皆、臆病なのよ。三沢様ににらまれたらここでは暮らしていけねえ」
「影親様……っ、俺……俺は、三沢様とそのご子息に脅されて……っ。なつめが三沢様のご子息の嫁だったから……。俺、三沢様に、倅を渡せばお前の命までは取らぬって言われて……。このままじゃ俺も真之介も殺される。でも……」
でも――
その続きを、弥平は言えずにうつむいた。
「俺だって真之介に情はある。できれば……なんとか生き延びて、どっかで達者に暮らしてほしいと思う」
昨夜のあの状況での形見分けは、弥平なりの今生の別れ。手は貸せないが、なんとか逃げてくれという意味合いだったのか。
「けど、こうなっちまったら俺、真之介までかばいきれねえ……っ」
――燐、泣くな。
「ところで旦那」
がちゃ、と吉兵衛が銃を持ちかえた。
「その女――」
銃口が、ゆっくりとこちらを向く。
「村では見ない女だなぁ」
にた、と吉兵衛が黄ばんだ歯を見せた。
「吉兵衛、お前まで……っ!」
言い終わらぬうちに吉兵衛の猟銃が火を噴いた。山々に銃声が、幾重にも木霊する。
影親が身を挺して燐をかばったのを見、吉兵衛がいやらしく笑った。
弾はわずかにそれた。火薬の匂いが鼻をつく。
本気で狙ったのか、わざと外したのか、吉兵衛の真意がつかめない。
影親の脳裏に八年前のことがありありと思い出された。
「旦那、俺は無実の娘たちが濡れ衣着せられて火炙りになるのは、確かに解せねぇと思ってるよ。だが本物の雪鬼女なら話は別だ。何の同情もしちゃいねぇ。俺の娘が死んだのは雪鬼女のせいだからな。――旦那、真之介はどこに行ったんでぇ?」
「それを聞いてどうする」
影親も己の銃に手をかけ、燐を庇うように前へ出る。それを吉兵衛が舐めるように眺め回した。
「旦那、その女よく見せておくれでないかい。なんだかなぁ、あのガキにそっくりだ」
吉兵衛の暗く淀んだ目がぎらりと光った。
「燐、走れ!」
吉兵衛に向かって威嚇射撃をする。
弾はわざと外した。吉兵衛が一瞬ひるんだすきに燐の手を取って走る。
その光景を眺めながら、吉兵衛がゆっくりと叫んだ。
「旦那ぁ! そろそろ村の者が銃声聞きつけて集まって来る頃だ。せいぜい頑張って駆け落ちするんだなぁ!」
必死で走る背中から、村人たちの声が聞こえてきた。かなりの人数である。
「くそっ」
「影親、少し待って」
つかんでいた燐の手がするりと抜ける。
「おい何を……っ」
振り返るや否や、燐が両手を舞うように振り上げた。着物の袖がひらめいたかと思うと、降り積もっていた雪が勢い良く大地から吹き上がり、壁のように積み上がって村人たちの行く手を阻んだ。
雪鬼女は神ではない。
無い雪を操ることができないが、そこに雪があれば利用することはできる。
今度はこれから進む方向へ向き、片手で薙ぎ払うように空を切った。燐の手の動きに合わせて、手前から奥へ雪が割れた。
「行こう影親!」
影親の手を、今度は燐が力強く引く。
――これが雪鬼女に成長した燐の力か。
もう銃口を向けられるままの燐はいない。
生きるために己の手で道を作り、己の足で走り出している。
だがその目には涙がたまっていた。
「燐、大丈夫か」
走りながら涙の粒が落ちてゆく。無理もない、父同然だった弥平に裏切られたのだから。
「大丈夫、私には影親がいるから。影親しかいないから……っ」
――これだけ大勢の人間がいるのに、燐を理解する者はもはや俺しかいないのか。
「影親と一緒に行くからっ!」
もしも俺に何かあったら、燐はどうなってしまうのか……。なつめを失ったことは、燐にも弥平にも、大きな痛みとなった。
足止めされていた村人たちが徐々に雪の壁から這い出てくる。
「雪鬼女だ! あれこそ本物の雪鬼女だ!」
燐を指して口々に叫ぶ。燐は振り向いて、再び雪で村人達の行く手を塞いだ。
「もう追って来ないで! お願いだから私たちを放っておいて! でないと私……」
できることなら誰かを襲うことなどしたくないはずだ。だが、一緒に行く――そう心を決めた燐は、何よりもそれを優先した。
「影親行こう!」
走り出したそのとき。
空気を震わせる爆音が、鳴り響いた。
その一瞬あと、
「あ……」
燐の背中が、のけぞった。
上を向いた燐の瞳に、久々に晴れ渡った青い空が映る。
燐の右の胸から、鮮血が飛び散った。
長い間、時が止まった気がした。
影親の目の前で、燐の体がどさりと音を立てて崩れ落ちる。
止まっていた時が、再び動き出した。
「燐っっっ!」
途切れ途切れに苦痛の声を漏らしている燐に駆け寄る。意識はある。ほっとしながらも影親は、血を流し続ける傷口を己の手で押さえることしか思いつかないことに焦った。
どうしたら良い。
どうしたら良い!
このままでは燐は……っ!
「影……親……」
「燐!」
「逃げ……て……。このままじゃ……二人とも……」
「燐、喋るな! 出血がひどい!」
燐の鮮血がどんどん白銀の大地へ広がってゆく。
「大丈……夫」
影親の制止を聞かずに燐は続けた。
「あとから行くから……必ず……。先に……行って……影親……」
こんな時でさえ微笑もうとする姿が痛々しい。
燐は片手を弱々しく上げ、人差し指を村人たちへ向けた。重傷を負った燐では先ほどのようにはいかない。雪も弱々しく舞い上がるだけで、妨害にも何もならない。
「馬鹿野郎! これ以上無理するな!」
「逃げて、影親……。今度は私が、守る……から……」
燐がもう一度、人差し指を上げる。
――が、ついに燐は意識を失った。
雪は微動だにせず、人差し指が虚しく空を切り、ぱたりと雪の上に落ちた。
「燐っっっ!」
頬を叩いても返事はない。燐の腕は力なく落ち、まぶたひとつ動かなくなってしまった。まだ息はある。だが今にも消え入りそうな、あまりにも弱い息。
青ざめる影親とは裏腹に、離れた場所から村人たちの歓声が聞こえた。
「死んだか?」
「わからん、気を失っただけかも知れん」
「雪鬼女は死ぬと消えるのだろう? まだ生きとる」
形勢逆転とばかりに村人たちが声を上げる。
背後から雪を踏む音が近づく。
「心臓外しちまったか」
舌打ちする吉兵衛の銃から漂う硝煙が鼻についた。
「貴様ら、なつめだけではなく燐までも……。これ以上……まだ手を汚したいのかぁ!」
影親の怒声は木々を震わせた。
辺りが静まり返る中、吉兵衛が冷ややかに笑った。
「旦那。旦那も雪鬼女に魂奪われちまったのかい? 見ただろう。そいつは紛れもなく雪鬼女だ。化け物なんだよ」
影親がぴくりと反応する。
「化け物……?」
動かなくなった燐。
真っ白な大地を染め上げる、真っ赤な血。
何故雪鬼女だというだけで、燐がこのような仕打ちを受けねばならぬのか。
「一体どちらが化け物だ! いい加減目を覚ませ! こんなことをして何になる! 三沢様のためか! 雪鬼女と見れば災いを呼ぶと決めつけて……っ。この子が今まで一体何をしたというのだ言ってみろ! 現に今だって誰も命までは奪われておらぬだろう! 血を流しておらぬだろう! なのにおぬしらは……っ、生きている者を火炙りにしたり、銃で撃ったり……、犬畜生にも劣る行いだ!」
影親の迫力に気おされ、村人たちは身動きが取れなくなった。その中で唯一、吉兵衛だけが歩を進めた。
「旦那」
銃口が影親の眉間に当てられる。
「馬鹿言ってんじゃねえよ」
しん、とあたりが静まり返る中、吉兵衛の冷たい声が降り注ぐ。
「俺の娘はもう戻ってこない。雪鬼女に命を持ってかれた。俺にはそれだけで十分な理由なんだ! おめぇら、こいつらを捕らえろぉ!」
鬨の声が木霊し、雪を蹴散らす群集が迫った。影親は燐を必死に抱きしめたが、殴られ、蹴られ、ついに燐と引き裂かれた。
影親の目の前で、燐に縄がかけられ、口もふさがれた。
燐の胸元からは、鮮血がとめどなく流れ続けていた。
次回
雪鬼女狩りの村 第十一話 鬼と成りて