![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/170651999/rectangle_large_type_2_78ccd6fc589c918e5e7ffd49bd8fc8b4.png?width=1200)
【小説】雪鬼女狩りの村(九)枷
真之介は影親に送られ、家へ戻ってきた。
先に帰っていた弥平が、真之介の姿を見て安堵の息を吐く。
「真之介無事だったんだな! 良かった……俺ぁお前まで何かあったんじゃないかって思って……」
なつめを失ったせいだろう、この短い間に弥平はすっかりやつれ果てていた。
「ごめんおっ父、心配かけて。影親様が助けてくれたんだ。あそこにいたら危ないからって」
「影親様が……。そうか、そうだな。お前も何されるかわかんねぇしな……。ありがとうごぜぇます、影親様」
「いえ、力及ばず……。なつめ殿はお助けすることがかなわず……」
影親がうなだれると、弥平はその場に倒れこむように膝を着いた。
「なつめ、どうしてあんな酷いことに……。あいつが何したってんだ。雪鬼女だろうが人だろうが知ったこっちゃねぇ。あいつはあいつだ。俺の女房なんだ。それでいいじゃねぇか……!」
弥平はなつめの壮絶な最期に、動揺と悲しみと落胆を露にしていた。
皆が弥平殿のようであれば……
弥平と真之介に別れを告げ、影親は庵へと戻った。
――影親は真之介とそのまま村を出るつもりだったが、真之介に渋られた。
「燐、お前も危険な身だ。いつお前に疑いの目が向けられるとも限らない。この村を出るんだ」
「うん。でもすぐには行けない。おっ父ともう一度会ってからにしたい。おっ父も私を可愛がってくれた。でも、私のことは何も知らない。本当におっ母と実の親子だと思っている。もう一緒にいてはいけないのはわかっているから、最後に一度だけ……」
影親はため息をひとつつき、わかった、と応えた。
「本当は一刻も早く村を出たいところだが……。一晩待とう。弥平殿が眠ったら家を出ろ。俺の棲家に来い。……いや俺が迎えに行くか。夜中に吹雪にでもなったら……」
「大丈夫。雪ん子はむしろ吹雪の方が動きやすい」
「……そうか」
しばし考え込んだが、
「では用が済んだら来い。日が昇る前に村を出る」
ということにした。
離れている間は不安が募るが致し方ない。
「できるか?」
「できる。約束する」
にっこりと笑った真之介の目は、もう不安げに揺れることはなかった。
*
誰かとの約束とはこんなにも胸が躍るものだったのかと、真之介は初めての感覚に襲われていた。心はすでに影親の元へと飛んだ。
だが弥平とも恐らくこれで永遠の別れとなるだろう。それは真之介にとって寂しく切ないことであったが、なつめもいなくなってしまった今、この村でこれ以上一緒には暮らせない。
おっ父、今までありがとう。
私、この村を出ます。
どうか、無事に生きて……
「おい……どうした?」
心配そうに弥平が声を掛ける。真之介は己の体を抱きしめ、うずくまっていた。
「真之介、大丈夫か? 具合が悪いのか?」
弥平がおろおろと駆け寄る。
「無理もない、あんな酷いものを見ては気分も悪くなるだろう。もう休め」
「体が……痛い……」
「いつものやつか? 今日はひどく痛むようだな」
真之介は歯を食いしばって痛みに耐えていた。もはや返事をする余裕もない。体を起こそうとしても、生まれたての仔鹿の如くすぐに倒れこむ。弥平も見るに耐えられないでいた。
「真之介……もう我慢できない痛みだな? ひどく痛むんだな?」
額に脂汗をびっしりと浮かべてうなずく。
「わかった」
弥平は立ち上がろうとする真之介を制し、奥から布団を運んできてそこへ敷いた。
「さ、少しだけ力出して布団さ入れ」
何度もよろめきながら床に就いたが、容体は落ち着かなかった。呼吸は速く、焦点も定まらない。腹が痙攣を起こし、血を吐いた。
「真之介ぇ! お前どうしたんだ、死ぬんじゃねぇぞ! 今から町さ行ってお医者呼んでくっから! しっかりしろよ!」
真之介はうなずきながらもなお、血を吐いた。
弥平は急いで傘と蓑をまとったが、やや考える素振りをして奥の部屋へと戻った。しばらくすると手に衣服と風呂敷包みを持ち、真之介のそばへ置いた。
「着替え、ここに置いとく。それとこれ、……なつめの形見分けだ。じゃあ行って来る。すぐお医者呼んで来るからな!」
「おっ父……」
弱々しい声で弥平を引き止める。
「ごめん……本当にごめんおっ父。……ありがとう」
今までありがとう。
おっ父に黙って出て行くこと、どうか許して……
背中を向けたまま、弥平はほんの少しの間じっと立ち尽くしていた。
だが次の瞬間にはいつもの父の顔で、
「いいんだ。気にするな」
と人のいい顔で振り向いた。
「じゃあな。……死ぬなよ」
弥平が戸口から出て行くと、冬の凍てつく夜気が流れ込んだ。
真之介にはむしろ心地良い。
また雪が、強くなり始めていた。
「う……ぐ……っ」
独りになってからもなお、血が腹の底から込み上げた。吐血だけではない。細胞一つ一つから流血しているような激痛が体中を走る。
影親……痛いよ影親……
弱々しく上げた手が、血に濡れて鈍く光を照り返していた。
*
その夜遅く――
影親が棲家としている庵の戸ががたりと音を立てた。強く吹き荒れている吹雪のせいではない。中にいた影親は、念のため猟銃を手にして戸口へ身を寄せた。
来た相手はわかっている。
しかし戸口の向こうに反応がない。
やがて、戸板にみしりと重みがかかるのがわかった。――様子がおかしい。
「誰だ」
静かに、だが強い語調で問う。
「影……親……」
「燐か?」
尋常ではない弱々しい声。
ゆっくりと戸を開けると、戸口に寄りかかっていたらしい体がずるりと倒れ込んできた。
慌てて影親が受け止めると、ぬらりと濡れた感触で滑り落ちそうになる。腕の中にいる燐であろうその姿は、いつもの「真之介」ではなかった。
「燐……なのか? 本当に? お前この姿……」
すらりと伸びた背。しなやかに垂れる腕。長く伸びた髪は血に濡れて凍てついていた。
「成長……したのか?」
着物は恐らくなつめの物であろう。
血に染まっているが、前に見たことがある。
影親の腕の中で苦痛に耐えながら見上げてきたその顔は、抜けるように白く、唇は血で濡れ、天女か魔性の者が舞い降りたかのような妖艶さであった。
「あのあと急に、いつもより強く体が痛み出して……」
「そうか……よくここまで痛みに耐えながら来たな。もう大丈夫だ」
冷たい体を抱き寄せ、頭を撫でる。
「遅くなってごめん……おっ父は町へ行った。今のうちに、村を……出よう……」
「待て、少し休め。出発は体が落ち着いてからだ」
影親は燐の細い体を抱き上げ中へ運んだ。
華奢な体であったが、今までの幼い体と違い、燐の体は柔らかくしなやかな女人の体つきへと変化していた。
「ごめんなさい……こんなときに……」
「心配するな。よく頑張った」
燐は未だ続く激痛に時折悲鳴を上げた。
いたるところから血が滲んでいる。
燐の細胞は数年分の成長を果たすため、破壊と再生を急激に繰り返していた。
その痛みたるやいかほどのものか。
燐の体の暴走する力が飛び出したように、外では雪と風が荒れ狂っていた。
どのくらいの時が経っただろうか。
吹雪はぴたりと治まった。
そして燐の悲鳴も治まっていった。
じき、空も白み始める。
「調子はどうだ」
沸かしていた湯をたらいに移しながら声を掛ける。これだけ冷え込んでいれば水は凍りつき使い物にならない。影親は庭の雪を火にかけて湯を沸かしていた。もう一つのたらいには雪を山盛りにし、湯に混ぜて温度を下げてから燐のかたわらへ置いた。
「ありがとう。ごめんね、もう大丈夫」
燐の声も表情も明るい。
言葉通り大丈夫そうだと、影親は安堵した。
そうか、と応えると影親はありったけのたらいと手拭いを燐のそばへ置いた。燐の体は乾きかけている血で汚れていた。
「体を拭け。出発はそれからだ。
このぐらいの湯は大丈夫か? 熱いならもっと雪を入れてやるし、ぬるいなら湯を足してやる」
燐は指先を湯につけ、大丈夫、とまだ弱々しいながらも玲瓏とした声で応えた。
細くしなやかに伸びた燐の指に見入る。
つい先ほどまで子供の姿だったのかと思うとやはり不思議でならない。
「その様子じゃろくに荷をまとめることもできなかったんじゃないか? 男物しかないが何か着替えを……」
「大丈夫」
微笑んで、小さくまとまった荷を見せた。
「おっ父が……町に行く前に急いで用意して私にくれたの」
「弥平殿が?」
「……形見分けだって」
「そうか、なつめ殿の……」
燐が着物を脱ぐ衣擦れの音を背中に聞きながら、影親はそっと外へ出た。
冷気で締まった空気が肌に当たる。
遠くの山を眺めていると、時折家の中から手拭いを絞って湯が落ちる音が聞こえた。
ほどなく、身なりを整え、旅の荷を手にした燐が出てきた。影親は改めて燐の姿をしげしげと眺め、ふ、と口元を緩めた。
「お前、腰が抜けるほどいい女になったなぁ」
湯で濡れて首筋に貼りついている髪の毛を直してやりながら、顔をのぞき込む。
燐は頬をうっすら赤らめ、素直に喜んだ。
なつめも美しい女であったが、燐はなつめのそれとはまた違う。天上の者か魔性の者かと思わせる、妖しい色香が漂っていた。
――雪鬼女なのだから、それももっともであろうが。
「なつめ殿の着物か。……弥平殿は何か察していたのかもな」
「何かって……」
「まだ『真之介』の姿でいたお前に女物の着物を渡した。いくら形見分けでも、床に伏しているときにわざわざ渡したりせぬだろう」
「あ……たしかに……」
「どこまで知っていたかはわからぬが、三年でも一緒に暮らして全く気付かないという方が難しいのかも知れんな。風呂は一緒に入らないし、成長もしない」
「そんな素振り、おっ父私には全く見せなかった……」
「なつめ殿も弥平殿には話していないと言っていた。気付いてしまっても、そのことにはあえて触れなかった。これが他の村人どもだったらとっくに突き出されていたぞ」
少し青ざめて、こくん、と燐がうなずく。
「それをしなかった。弥平殿も――父だったのだ」
燐の目がじわりと潤んだ。
「形見を渡したのは、逃げてくれという願いなのか……」
父の思い、か。
皆血は繋がらずとも、こんなにも互いを思いやっている。実の親子でもこのような絆は難しいかも知れない。
三人の親子が、影親にはひどく愛おしい存在に思えた。
「そういえば少し前から体の痛みを訴えていたな。あれは成長する前触れだったんだなあ。俺もガキの頃、急に背が伸び始めたのと同時に膝が痛くなったものだ」
「うん……そうだと思う。おっ母は病ではないと言っていたから。それに」
「それに?」
「痛みは影親と再会してから徐々に始まったから。影親と……本当に一緒に行くことなんてあるのだろうかと、そんなことを考えるようになってから痛みだした気がする」
そうか、と影親は薄く微笑んだ。
「迷いがなくなって、枷が外れたということか。今まで何年もの間、自分の意思で成長することを拒んできた。だが今はもう、自分が進むべき道を決めた……。成長を抑制する枷が外れて、数年分の成長を急激に始めたのだろう」
今夜この旅立ちの日に。
それはまるで、覚悟の表れ。
もう後戻りはしない。
本来の姿で生きてゆくのだと。
「行くか」
「はい」
軽やかな声で燐が返した。
もう迷いのない、明るい声であった。
白み始めた空の下。雪深い道を二人、手を取り合ってざくりざくりと歩き始めた。
次回
雪鬼女狩りの村 第十話 裏切りの弥平