発症から1年
[更新履歴]
11/25 20:25 校了・Xに投稿
誤記・表現は適宜修正
11/26 15:40 (2)を上方へ移動
11/26 21:00 (4)を追加
11/27 16:20 (9)を追加
11/27 21:00 リンクを追加
11/28 22:30 (8-5)を追加
11/29 20:00 (3)を追加
12/2 17:00 (1)を追加
1/10 19:00 目次を削除
(1) 3行まとめ
先天性異常血管(AVM)が破裂したことによる発症から1年経過し、今は、社会復帰のステップを歩み始めた回復の途中です。
AVMは執刀医から完治と言われ再出血の危険性は低く、合併症の鎖骨骨折は接合済み、左片麻痺と高次脳機能障害はリハビリ中で、症候性てんかんは投薬治療を受けながら経過観察という状況です。
この記事が健常者の健康意識向上に貢献し、脳卒中闘病者とご家族の参考になることを期待しつつ、個人的には、既知の方にまたお会いできる日を楽しみにしながら、次の1年を無事に過ごせれば嬉しいと考えています。
2022年11月30日の発症日から1年が経過しました。生まれつきの異常血管が破裂して脳出血し、今まさに社会復帰の過程を進めています。これまでの経緯を備忘録として書いてみました。長文なので関心ある部分を読んでいただければ。脳卒中は6人に1人がなる病気。周りの人も含めると脳卒中患者と接する機会は多いと思います。患者の容態は人それぞれです。高齢者の病気と思われがちですが若年者もなります。高齢になる前に先行体験してきました。この体験談が皆様の参考になれば嬉しいです。
なお、脳卒中は、脳出血と脳梗塞とくも膜下出血の総称です(脳卒中の詳細は→e-ヘルスネット(厚労省)の情報提供へ)。
また、現在の体調は下記の(8-5)にまとめています。
応援したいと思ったら、まずは「いいね」で応援してもらえたら嬉しいです!
(2) 心境:脳出血で変わったこと
(2-1) 良くなったこと
脳出血にならなかった場合と比べて良くなったことを、倒れてからずっと考えている。今は以下のような考えに至った(強がりかもですが)。
第1に、生活が健康的になった。今回の後に怖いのは、高血圧性の脳出血や脳梗塞で更に片麻痺になることだと考えた。50歳以下の若年者脳梗塞は世界的に増加傾向と言われている。脳卒中の後遺症は辛くて「死んだほうが楽」と思いたくなる時もあるけど、直ちに死に至る病気とは言えない。
塩分控え目で栄養バランスの取れた食生活、運動習慣、睡眠時間の確保、ストレスの小出し解消、ヘルスケア関係の自己データの収集・分析など、脳出血前と比べて健康を意識した生活スタイルになった。一般的な生活習慣病対策に近いので寿命はむしろ延びちゃうかも。
妻も一緒にやってくれているので、妻の健康と美容に役立っているかもしれない。ご恩を返さねば。
第2に、自分の命に限りがあることを自分事として捉えるようになった。例えば、ネットバンクの口座の預金は僕が突然死んだら誰にも存在が伝わらない可能性に気付いた。そして、終活は遠い未来の話ではないと思った。
また、将来の、死に向かうような闘病生活にどう備えるかを考える機会になった。闘病中は家族との関係性は大きく変わった。闘病中の患者の意思を尊重してくれる家族なのか、自分(家族)の思いを貫こうとする家族なのかは平常時に見極める事は難しい。このあたりの話は改めて考えをまとめていきたい。
第3に、脳出血後の闘病生活は、思い返すのも嫌になるような壮絶なものだった。今後、脳卒中と闘う人の気持ちを聞いてあげられるかもしれない。
症状は人それぞれで希望近くまで回復する人もいれば、そうでない人もいる。「医学の進歩と自分の回復力を信じて」としか言えなくて、聞く専門です。
リハビリに取り組みながら、本人のモチベーションをどう上げるかが鍵と思った。諦めムードの高齢者をたくさん見てきた。何とかしてあげたいけど、こればっかりはどうしようもない。自分に余裕もなかったし。
何冊かの本には「夫婦の絆が強まった」みたいな事が書いてありますが、そういう綺麗ごとな実感は無いです。自分の病気のことで夫婦の意見を合わせないといけないのはしんどい。死ぬ自由も権利も無い。
でも、次は自分がケアする番かもとは思います。その為には、リハビリ頑張らねば。(まさか、これが「絆」?)
(2-2) 悪くなったこと
多すぎるし、思い出したくもないので書きたくありません。脳卒中には予防しかない。予防法は地味でつまらないですが、なってしまったら話は聞きます。
先輩風を吹かせたいので脳卒中患者グループに是非仲間入りしてください。仲間に迎える日を楽しみに待っています(笑)
(3) よくある質問
頂いた質問をまとめます(追加するかも)。
Q1 私に何かお手伝いできることはありますか?(治療法・食品・サプリ等の情報提供、贈り物・お祈り・応援したい等)
A1 現在は健康面に問題なく、お願いしたい事はありません。お気持ちだけで十分です。応援は記事のハートマークを押してください。
Q2 何故公開しようと思ったの?
A2 私の体験談が誰かのお役に立てるなら、と思ったからです。
Q3 前兆は?過労の影響?
A3 医師からは、前兆はなく、過労の影響もない病気と教えられました。就寝中の発症例もあり、まさに運次第とか。
Q4 記事内容&レッドの病気のことをどこまで共有・使用・伝達していいですか?
A4 公開してるものなので自由に共有・使用・伝達してください。範囲はどこまでもOKです。
私の病気のことを伝える場合は、誤解を避けるため、この記事のリンクも含めて伝えて頂けると助かります。
Q5 障碍者手帳はもらいましたか?
A5 程度が軽かった為、申請していません。
Q6 どの部位が出血?
A6 右前頭葉の表面近くです。
Q7 安心したいので写真見せて?
A7 恥ずかしいのでご勘弁ください。
Q8 会えますか?
A8 今は社会復帰ステップの途中です。回復がもっと進んでからお願いしたいです。
Q9 再出血の危険性はありますか?
A9 異常血管は全て除去されたので、再出血の可能性は殆どないと執刀医に言われています。特に怖いと思っているのは、高血圧性の脳出血と脳梗塞です。
Q10 初台リハ病院で長嶋終身名誉監督には会いましたか?
A10 一度だけ遠目からお見掛けしました。オーラが凄かったです。
以下は脳卒中発症から1年間の個人的な経緯を書いています。長いです。
(4) 1年間の経過まとめ
2022年11月30日 職場で脳出血
2023年1月4日 脳血管閉塞手術
1月17日 開頭手術(慈恵医大)
2月8日 初台リハ病院へ転院
3月31日 退職
4月13日 リハ病院から退院
4月27日 てんかん発作で転倒骨折
5月15日 骨折手術(日本医大)
6月27日 通院リハ病院変更
9月27日 てんかん発作(2回目)
11月16日 社会復帰(採用日)
11月17日 初出勤(350日振り)
(5) 脳出血発症から面接辞退
脳出血になったら契約延長辞退になった話。
(5-1) 会社のルール
働いていた会社には「退職後に同業他社と取引先への就職が禁止」というルールがあった。昔の職員がやらかしてしまい、厳しいルールになったらしい。その事は分かっていたけど、まさか契約延長の面接試験の3日前に脳出血になり、開頭手術の直前に面接試験を辞退させられ、退職後の再就職制限もそのまま適用されるとは全く想定していなかった。
(5-2) 脳出血発症から手術まで
2022年11月30日に脳出血が発症。会社の非常階段で倒れて救急搬送された。妻には「ご主人が階段で転落した」と連絡され、「どういうこと?」と思いながら病院に来たらしい。救急搬送後すぐに、画像診断で脳出血と判明したものの、その原因の解明には1カ月かかった。「再出血が致命的」と言われて絶対安静の日々が続き、リハビリ開始が遅れた。当初は「出血量が多いから良くなっても車椅子生活」と医師に言われて、妻は大きなショックを受けたらしい。気丈にも「相談相手がいてくれるだけで十分。生きてて良かった。」と言ってくれた。これに対して、僕は内心「妻の相談相手で人生を終えるなんてまっぴらごめんだ。リハビリで絶対復活してやる!」と決意した。どこまで治るかは、出血の部位と量、患者の年齢によっても異なり、人それぞれらしいけど。
脳出血は高血圧の高齢者が多い。僕の場合、高血圧ではない46歳だったんで、他の特別な原因が疑われた。麻酔無しで、カテーテルを脳まで挿入され、造影剤(恐らくICG)を出しつつX線撮影する検査(アンギオ検査の詳細は→東京医療センターの血管造影検査のページへ)を受けた。造影剤がピュピュっと出た時、目がチカチカするという不思議な体験をした。
その結果「脳動静脈奇形(AVM)」と診断された(AVMの詳細は→国立循環器病研究センターの情報ページへ)。胎児から幼少期の成長過程で発生した脆い異常な血管があり、それが何らかの理由で破裂したと説明された。初めて聞いた病名で、ネットで調べたところ、10万人に1人くらいの稀な病気で、日本全体で1000人くらい。若い脳出血患者の原因としてたまにあるらしい。以前受けた脳ドックでは発見されなかったので釈然としなかった。まさに貰い事故のような気分。
「海外とか運転中に発症しなくて良かった」とか「体力的に治る見込みがまだある年齢で発症して良かった」とかのように「悪いケースと比べて良かった」と自分に言い聞かせて受け入れようとした。AVMは運良く脳の表層に1つだけであり、摘出手術が可能と判断された(治療法の解説は→Medical Noteオンライン講座「脳動脈瘤・脳動静脈奇形Webセミナー」を参照)。はじめに、全身麻酔下での血管閉塞手術でAVMに至る血液の流れを止めた(2023年1月4日)。次に、全身麻酔下でAVMを切除する開頭手術を受けた(2023年1月17日)。
(5-3) 交渉からの面接辞退
急性期病院では左半身麻痺による寝たきり状態であり、ベッドサイドに座ることすらできない有様だった。更に、精神的負荷を避けるように指示されていた為、会社との交渉は妻が担った(コロナの影響で会社の人と面会不可だったのは僕にとっては良かった)。
「面接試験をやるなら会社で実施(オンラインは不可)」と通告されたなど、会社の非情な考え方が受け入れられないと妻を悩ませてしまい申し訳なかった。妻は、先のことが不安な中、自分の仕事・子供の世話・夫のメンタルケアで、余裕が全く無い状況での交渉になってしまい、条件は悪かった。(僕の母親が上京したがって、妻がその相手もさせられ苦労していたことは後日聞いた。僕の妹が母を諭して諦めさせて解決したらしい。一喝したのかも。)
僕は履歴書に空欄を作ることに抵抗があり、何とか面接まで漕ぎ着けたいと思っていた。振替の面接候補日として指定されたのが開頭手術の4日前。病院にコロナウイルスを持ち込まないように介護タクシーで移動し、面接から戻ったら費用自己負担で個室に隔離されることを条件に病院側は外出許可を出してくれた。これに対して会社側は「4月1日時点で完全復帰できるという診断書を出すこと」を条件に言ってきた。手術前の時点で医師が回復見込みを予想できるわけないことは素人でも分かる。会社側は自主的な辞退を迫っていると判断して面接を受けないことを決断した。
結局、面接候補日の数日前に病院側スタッフにコロナ陽性者が出た為、面接候補日に外出できなかっただろうし、病院側が原因で隔離になったため、差額ベッド代無しで個室で過ごせた。大部屋では不可だった家族とのビデオ通話が可能になり、ゆっくり手術に備えられたので、面接を受けない判断は正解だったと思う(コロナは怖かった)。
(6) リハビリ病院にて失職へ
リハビリ病院入院中に無職にクラスチェンジした話。
(6-1) リハビリ病院へ転院
急性期病院からリハビリ病院への転院は2023年2月8日。付き添う筈だった妻がコロナ陽性になった為、妹が上京してタクシーでの転院移動に付き添ってくれた。往復の新幹線代を払ったので、介護タクシーを使った方が安上がりだったけど、久々に会えて心強かった。
リハビリ病院では即日リハビリ開始。いろんなテストを受けて、自分がとても働ける状態じゃないことをデータで突きつけられ、暫くは障害を受容することに苦悩した。この頃は急性期病院よりも辛かった。
言語療法では、頭を使うとすぐに疲れてしまう。初回は20分くらいでギブアップ。「易疲労性」という用語は後で知ったけど、その改善と、注意力を高めるリハビリに取り組んだ。いわゆる脳トレ。
作業療法では、麻痺側の肩関節と指のリハビリに取り組んだ。粘土をつまんで引き延ばしたり、ゴルフボールを手のひら上で回したり、とにかく地道。途中からタイピング練習もやった。
理学療法は、転院時に運良く自立歩行できていたので、外歩きと筋トレがメイン。外に出るのは気分転換になった。誘導尋問で目標を高尾山登山に設定されたり、復職に向けてという名目で重りを入れたかばんを持って歩く歩行トレを提案してくるような新人PT殿が担当だった。ネガティブな事を言ってくれるので妻に相談したら病院にクレームを入れてくれて解決した。妻が最も活躍した出来事の1つだったと強調しておきたい。重り入りかばんは意味不明過ぎて、途中で拒否した。
(6-2) 失職してから退院へ
できるだけ速やかに仕事を開始したくてリハビリを頑張っている中、2023年3月31日を迎え退職となった。この日はオンラインで退職挨拶するように依頼されたけど、丁重にお断りした。上司に挨拶メールを送って代読して貰った。
そして翌4月1日からは無職。何とも例えようがない喪失感に襲われたけど、なるべく明るく元気よく過ごして、家族にも病院スタッフにも心配かけたくないと必死だった。
そして、2023年4月13日に無事に退院。7月くらいの再就職を目指して通院リハビリ頑張ろうという気持ちだった。
(7) 苦難との闘い
症候性てんかん発作で転倒し骨折した話。
(7-1) 通院リハビリ開始
退院前に、通院リハビリの病院を、入院してた病院(渋谷区初台)から自宅近くの系列病院に変えてくれとお願いしていたけど、初台病院のほうが規模が大きいので免許取得に対応できるとか、いろいろ理由を言われて変えて貰えなかった。元締SWさんが年度末で退職されるから、忙しいのかなぁと思っていた。(元締SW=ソーシャルワーカーのグループリーダーのこと)
「担当OTさんが病棟から外来に異動してくるし、慣れてる病院だからまあいいか」と思っていた。
(7-2) 症候性てんかん発作
開頭手術を受ける直前から抗てんかん薬を処方され「手術後てんかんになる人もいるから念のため飲みましょう。」と軽く説明されていた(症候性てんかんの詳細は→てんかんinfoの高齢者のてんかんのページへ)。
4月27日の夕方に自宅で洗濯物を干しているときに、まさかのてんかん発作が発生。麻痺側の手足が突然震え出すも制御できず、意識を失って転倒。離れた所に妻子がいたけど、支えるに至らなかったとか。僕もまさか起こるとは予想していなかった。救急車で搬送される時は、床に血が散らばっていた。妻が「救急車の電話番号が分からない」と騒いでいて動転していたから教えてあげた。本人は意外と冷静。
急性期に入院していた慈恵医大附属病院(新橋)に搬送され、検査の結果、脳への異常は無く、目の上の外傷と、麻痺側左鎖骨の骨折が判明。外傷は縫ってもらったものの、骨折は連休直前で対応が難しいので、自宅近くの都立駒込病院を提案され、そこの整形外科へ行く様に紹介状を渡された。
(7-3) 鎖骨骨折整復手術
提案された都立駒込病院へ行くと「この骨折の治療には全身麻酔での手術が必要だけど、脳出血の患者に全身麻酔を安全にできる自信がないから無理」と断られた。病院同士で連絡しないのかと、正直呆然。
紹介状の再発行は時間がかかるので、駒込病院に紹介状の返却をお願いして、日本医科大学病院を受診した(紹介状無しだと5000円くらい余計に必要)。「鎖骨遠位端骨折ですね。麻酔は問題ないから、うちで手術やりますよ」と言ってくれた(鎖骨遠位端骨折の詳細は→日本骨折治療学会の解説ページへ)。前の駒込病院の対応は何だったんだ(駒込病院は腫瘍と感染症がメインの公立病院なので、脳卒中関係の症例は少ないのかもしれないし、お役所体制なのかもしれない)。
手術までは鎖骨バンドをして安静に過ごした。2023年5月15日に、全身麻酔下でチタンプレートで骨を繋ぐ手術を受けて、無事に成功。骨折してから手術までに2週間強空いてしまい、骨格が歪んだせいなのか、手術当日の夜は猛烈な痛みに襲われた。
(7-4) 社会復帰プランの修正
麻痺側左肩を数か月固定することになり、それまでやってきたリハビリが振り出しに戻ることになり、僕のメンタルは最悪に落ち込んだ。妻は「僕が命を断つんじゃないか」と相当心配だったらしい。しかし、こんな状況でも前を向きたいのはやりたい事があるからでもあり、厳しい状況を何度も乗り越えた過去があると奮い立たせた。他の人の苦難を乗り越えた動画とか見て気分をアゲたりもした。脳出血で即死した知人とその遺族の事を考えると、自ら命を絶つなんてちっとも考えられなかった。
社会復帰への目標は数か月延期して療養に集中しつつ、娘との時間を楽しもうと思った。
(8) 社会復帰を目指して
社会復帰に向けてベストを尽くそうと行動した話。
(8-1) 前職への事前相談
前職は、事務仕事で、慣れた環境というメリットもある。会社の体制が気に入らないと妻は主張したけど、無理せず働ける環境を重視して、前の仕事に戻ることを希望した。退職前に、前の上司から「次年度の中途採用に応募するなら、別の所で働いている状態で応募することが望ましい」と妻にアドバイス貰ったとかで、退院後、どういう意図だったのか会社に問合せたら「その上司も更に上の上司も異動になったので、意図が確認できず、よく分からない」と回答があった。なんじゃそりゃ。
まあでも、健康面での不安材料は減らしておくに越した事ないし、いきなり本番で週5勤務はきついから練習がてら働ける環境で慣らした方がいいと考えて、仕事を探すことにした。
妻は「ハローワークに行け」と主張したが、再就職制限が重荷と思って、友人に頼み込んだ。回答貰うまでに少し時間かかったけど、週1勤務なら良いと言ってくれた。持つべきものは友達だ。そこでの勤務の後、前の会社に戻る希望もあるため、再就職先として問題ないか確認してもらいながら手続きを進めた。11月16日の採用となった。
(8-2) 自宅療養中にトライしたこと
肩は固定されている状況だけど、片麻痺の指先の動きと高次脳機能障害のリハビリは進められる。「何でもリハビリ」の心掛けで、関心あることを試したいと思った。
まず、投資について。政府が投資を促進しているけど、今まで時間がなくて手を付けていなかった。物価が上がっているので預金は価値が下がり続けている。また、円安だったので、海外投資家が日本株に投資して株価が上がると予想した。銀行の人に教えて貰いながらやってみた。担当者との会話は、無料で言語療法をやってる気分。(詳細は→「投資の勉強」で言語リハビリを参照)
次に、ゲームについて。ゲームは、操作が指の運動にもなり、ニンテンドースイッチを持ち続けるのは手首の荷重トレーニングにもなり、ゲーム内の状況判断は脳トレにもなる。ゼルダの伝説の新作をやりたかったけど、複雑すぎて負担が大きかった。仕方ないので我慢した。
そして、SNSについて。SNSは、10年以上前にアカウントを作ったけど、活用しようとすることをサボっていた。文字数制限があるX(Twitter)で、考えを要約して書いて投稿することがリハビリになると割り切って楽しんだ。情報収集のツールとして使うには難しいと思った。人間関係は依存するのが危険と思った。忙しかったらできないわ。同じ病気の患者のコミュニティがあり、同じように闘っている方々との繋がりは励みになった。
脳卒中・リハビリについての情報収集は、主に書籍から。図書館には関連の本がたくさんあった。ただし、若年者脳卒中向けの本は殆ど無い気がした。
(8-3) 2回目のてんかん発作と対策
2023年9月27日に2度目のてんかん発作が発生。横になってる状態だったから転倒は無く、意識喪失も無かった。隣にいた娘は逃げ出していった。怖い思いをさせてゴメンよ。
発作の翌々日が通院予定日だったので、発作当日は救急車を呼ばず、安静に過ごして、脳神経外科を受診した。医師に確認したら、「直ぐにきた方が良かった」と言っていたので、電話相談しておくべきだった。妻が「2回とも夕方にてんかん発作が起こったんですが、何か関係ありますか?」と質問していて、良い着眼点と思った。前回の発作の時はイーケプラを増量して対処したけど、今回は、イーケプラとは作用機序の異なる抗てんかん薬フィコンパが追加され、併用療法になった。2回目があると「また起こるかもしれない」とかなり不安になった。しかし、「てんかん対策が万全でないことが就労前に分かって良かった」と前向きに捉えることにした。
そして、これを機会にやらないと決めたことが2つある。1つ目は、発作が起きた時に命の危険があるようなことで、自動車の運転、水泳、線路の側(ホームの端)等を歩くこと。2つ目は、発作の原因になるかもしれないことで、飲酒、過労、睡眠不足、母親との連絡(ストレス源)。母とはLINEをブロックして直接的なやり取りを止めているだけで、電話は止めようがないし、グループラインで連絡は取れる状況。極力、妹を介して連絡とるようにしている。
(8-4) 次のステージに向けて
友人のつての会社には、2023年11月16日付で採用された。週1出勤なので、初出勤は2023年11月17日。脳出血で倒れて実に350日振りの出勤だった。前回と出勤先は違うけど。この会社は5年半前とは部署違いの出戻りなので、知っている人もいるし、負担は少なめ。情報システムは大幅に変更されてて苦戦した。妻と同じ会社になり、隣の部署に勤務するので、監視されてる感もあるけど、手伝って貰える事務作業もあり、いざという時に駆けつけてもらえる安心感もある。
仕事内容は特にノルマはなく、僕の社会生活の立て直しという位置付けの温情ある環境にして貰った。何らかの貢献をしてから卒業し、前の会社に戻ろうと思った。タイピングによる指先リハビリと座る姿勢の維持の為の筋力アップを目標に掲げて、当面はWEBライター志望でいこう。
(8-5) 現在の体調
脳出血・脳動静脈奇形は、執刀医から完治というお墨付きを貰っている。
鎖骨骨折は、執刀医から接合済みという見解を貰っている。
症候性てんかんは時間の経過とともに再発リスクが減ると言われているけど、発症リスクの評価法がない為、薬物治療を継続(当面と言われるけど、発作した時の事を考えると一生継続かも)。
左片麻痺はリハビリ次第。どこまで良くなるかは誰にも分からない。タイピングやボタン嵌めはなんとかできている。
歩行は問題なくできている、走るのは無理。
見えない障害(高次脳機能障害)は説明が難しい。言語化に挑戦したい。
(9) 記録的なもの
iPhoneヘルスケアアプリで記録しています。リハ病院で勧められて始めました。
倒れる前の平常時と比べたいのに、記録に残っていなくて残念。血圧くらいは、普段から記録しておくことがオススメです。
(8-1) バイタルデータ
(8-2) 運動データ
(9-3) 脳出血翌日と1週間後のポスト
脳出血翌日の意思表示とスマホの片手操作は難しかったです。
(ヘッダー画像は、また行きたいロッテルダムの観光船@オランダ, 2016年5月7日撮影)
ご指摘等
メール(tauminjp at gmail.com)等にお願いします。