「未知との遭遇」ばかりの闘病坂
6月末に退職してからの療養生活もそろそろ飽きてきました。noteでも闘病に関する記事はそろそろ終わらせて、次の準備の内容に切り替えたいと焦ります。しかしながら、今は治療方針の確立が最優先。けいれん発作対策をしっかり固めなければ、周りに迷惑を掛けてしまいます。心(=働きたい)と身体(=働けない)のギャップを感じる日々です。
思えば去年も、早く働きたいとリハビリを焦り、結果的にてんかん発作を何度も起こすことになりました。今回こそはじっくり進めたいです。
とはいえ、自分が休んでいても社会も家庭も回っているし、「必要とされていない感」が気になってきたら寂しいものがありますね。
通常は、定年退職後に感じるヤツですかね~?社会・家庭での役割や目標があることは、精神衛生上、大事だと思います。(認知症患者への接し方として習ったことがある気がする)
これまでの闘病生活を振り返って、改めて強調しておきたいのは、脳出血のような大病は、健康面での自信を奪い去ってしまい、たくさんの事を諦めることになったけど、「その分、今後得るものがある」と信じることが大事!(ポジティブにいこう)
特に、証明写真に写る自分の目を見て自信無さげに思えたことは悔しいし、病前と比較してくる周りの期待に応えられないことは辛かった。
闘病生活においては、正しい知識を持っていることは重要だけど、自分の状態を周りに正しく伝えるスキルはもっと大事。分からなかったら、周りのプロに支えてもらえばいいだけです。
そして、相手の言っている内容の妥当性を見極めるスキルも重要です。親切心からの周りの人の誤ったアドバイスを鵜呑みにするのは極めて危険です。
例えば、先日、「抗てんかん薬の副作用が強くてしんどいので、量を減らしたい」と言ったところ、「半分に割って飲んだら?」と提案されました。しかし、錠剤を割ると、表面コーティングが効かなくなり、有効成分が胃で溶け出して胃酸で分解され、脳に届かなくて、けいれん発作が防げなくなる危険性があるのです(血液に吸収される小腸まで届かないので)。
思い付きのアドバイスほど恐ろしいものはありません。自信を持って答えられないことは「分からない」と言うことの重要性ですよ。
今回、医師の助言ですら、専門外だと疑わしいこともあると初めて経験しました。その結果、なんとか辿り着いた就職先を3か月で退職することになり(個人的には最低限の得るものはあったけど)、「勉強代にしては高くついた」と思うのです。
セカンドオピニオンという手段が知られていますが、その必要性に気が付くかどうかは自分次第な気がする。「医師だから間違うはずがない」と思い込んだら取り返しのつかないことになるかもです。怖い話です。
発症後の人生は、まさに「未知との遭遇」の連続。誰もやったことが無いことに主体的に取り組めるかどうかという姿勢が問われているように思います。
病前にできていたことは殆どできないし、これまで積み上げたものは経歴しか無い。今後は、経歴を活かしたハッタリ人生になりそうな予感がする。
そのあたりの作戦は、また改めて書きたいです。せっかく生存したのだから、いつまでも諦めムードじゃいられない。
書き始めたら、闘病生活のまとめっぽい書きっぷりになってしまいましたが、
(ヘッダー画像は、もう一度見たい「民衆を導く自由」@フランス, 2011年12月24日撮影)