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しぐれうい5周年とは何だったのか(前篇/画集・個展)


 2024年が終わろうとしている。
 僕にとって今年はしぐれういの年だった。Vtuberをあまり知らず、偏見さえ持っていた自分が初めて"ハマった"、それが彼女だった。
 そして、今年がしぐれういの年だったと感じるのは僕だけではないはずだ。
 彼女は"5周年施策"を行い、多くのメディアに露出し、注目を集め、画集とアルバムをリリースし、個展とライブを開催した。
 この"5周年施策"について、今年のうちに何か書いておきたい。
 こうして、文章を書き始めた。


前置き

 この記事は(敬称略)しぐれうい本人の見解や希望に反した面があります。彼女は配信等で幾度となく、自分に過剰に入れ込みすぎないでほしい、人に勧めようとしないでよい等と語っており、また彼女のVtuber観を歌った「ハッピーヒプノシズム」にも「深読みばかりは疲れちゃうのさ」という歌詞があり、その思想にとても共鳴しますが、これから書くことはある意味それに反した"深読み"です。
 それでも「この人は多くの人が思っているよりとても先鋭的な、オルタナティブなことをしているんだ」と伝えたい。この文章はそのような意図があります。

 

はじめに

 しぐれういはイラストレーターで、作家である。

 "しぐれうい"はVtuberで、作品である。

 何を今更、と言われるかもしれないが、しぐれういの特異性はこの二人が併存していることだ。
 "しぐれうい"はしぐれういの生み出した作品であること。
 僕がしぐれういにもっとも関心を持つのは、Vtuber観に作品作家性の関係を強く打ち出すのがとても新鮮に映ったからだ。僕はこの文化に熱心な視聴者ではない。しぐれういと仲の良い人物のこともあまり知らない(だからここではあまり取り上げない)。だからその試みが現実でどれほど挑戦的なのかは分からない。既にやっている方もいるかもしれない。ただ、ここまで大規模にやっている存在はあまりいないのではと勝手に思うけれど。
 そして僕はVtuber批評にも関心が薄い。読んでみた批評にも自分の興味のある議論がなかったためだ。だからこれから考えることに先行研究は一切使用しない。
 僕がこれからしたいのは、批評ではなく考察だ。

 あなたにとってしぐれういとは何だろうか。
 可愛い女の子を描くイラストレーター? 個性的な配信者? 有名Vtuberの"ママ"で交友の深い関係者? アイドル? ネットミーム?

 言わせてもらえば、しぐれういとは非常に先鋭的な作家であり、彼女の傑作である


しぐれういの基本的な構造

 Vtuberって、生きているキャラクターなんですよ。それがいいところでもあるんですけど、そのことによって見る側の不安も発生してしまうもので……健康がどうだとか、配信をしていないときの生活がどうだとか。アニメキャラに対してそんな不安は生まれないですよね。少なくともVtuber・しぐれういは、そういう概念とは切り離された存在として認識してもらいたいんです。「みんな、もうちょっと割り切りなよ!」みたいな(笑)。

ナタリー イラストレーター兼Vtuber・しぐれういにとって“歌うこと”とは──その意味を解き明かす

「Vtuberしぐれういは、完全にフィクションですよ」っていうのを、言いたくて。
(略)
「みなさんの生きている世界には実在しない、インターネットのキャラクターですよ」っていうのを言い切るようなCDにしたくて、『fiction』という名前を付けました。

Vtuberスタイル デビュー5周年記念単独インタビュー

しぐれ:私、自分の配信はアニメを見るような感覚で見てほしいんだよね。
(略)
 フィクションの世界が好きだから、自分もフィクションでありたいという感覚が強いのかも。

コンプティーク しぐれうい×ぽんぽこ対談

 前提として、しぐれういという存在・表現を、以下のようなモデルに(勝手に)整理させていただく。私見では、四つの層に分かれている。学術的に問題点があるかもしれないがここでは前述のとおり無視する。

1 しぐれうい(現実の人間)
 ―――――
2 しぐれうい(作家・プロイラストレーター)
 ―――――
3 しぐれうい(イラストレーターの属性と二次元のデザインを持つVtuber)
 ―――――
4 しぐれうい(キャラクター)

 基本的に彼女は上から下に向かって変化しながら生きて、活動している。上部の変化が下部に反映されるのだ。
 3と4の区別は分かりにくいかもしれないが、実際に活動する"しぐれうい"とキャラクター記号としての「しぐれうい」の違いである。
 彼女は徹底して自身のブランディング、キャラクター性に固執しているので、ある程度コンテンツを視聴すると脳内で彼女が何を言いそうかエミュレートできるほどである。そうしたキャラの外見、性格は共有される。二次創作を描かれることもあるだろう。そして熱心なファンから見たことはある程度の人まで、大量複製され遍在する記号、ポップアイコンとなる。3の活動が4を仮構する。
 それが人々に認知されるキャラクター「しぐれうい」であり、作家しぐれういが人生をかけて創造したい究極の"傑作"である

 さて、5周年にはしぐれういに似た黒髪の少女(黒髪うい等と呼ばれる)が登場したが、多くのファンは2の擬似的な姿と解釈しているようだ。
 しかしここで、キービジュアルのメタ要素を考えてみよう。『雨を手繰る』で絵を描いている黒髪ういのスケッチブックには『masterpiece』の額縁から飛び出すしぐれういが描かれている(キービジュアルのメタについては今後も言及します)
 ……ならば、黒髪ういは"しぐれうい"を生んだ制服の少女、というメタキャラと考えてはどうか。ならスルーされがちな高校生設定もVtuberによくあるお約束でなく、コンプティークでピンナップされたように、意味を読み取れるかもしれない(施策の4つのビジュアルの話は後でします)。
 同じ高校生の黒髪ういが生み出したから、Vtuber、そしてキャラクターしぐれういも16歳の女子高生なのだ。
 
 つまり、正確にはこうなる。

1 しぐれうい(現実の人間)
 ―――――
2 しぐれうい(作家・プロイラストレーター)
 ―――――
3 黒髪うい(2が創造した虚構の高校生の女の子。自分の存在から4を創造したという設定?)
 ―――――
4 しぐれうい(2のプロイラストレーターの属性と3の高校生設定を持ち、二次元デザインを得た、1の人生を素材に実質2がコントロールするVtuber作品)
 ―――――
5 しぐれうい(キャラクター)

 他のVtuberと話しているときはどう解釈するのかなど、いろいろ問題はあるが、これ以上考えるとここだけで永遠に終わらないので一旦基本的な話はここまでにしたい。

5周年施策の分析・レビュー

 ここからは5周年で発表された四つの作品・イベントを振り返っていくが、その前にすべてのキービジュアルを貫くメタ性を簡単に指摘したい。
『雨を綴る』の表紙イラストは雨の中傘をさして水たまりの前に佇む少女(黒髪うい)。それに対し、『fiction』のカバーアートは水たまりの中に映ったしぐれうい。
 また前述のとおり『雨を手繰る』で絵を描いている黒髪ういが描いているのは『masterpiece』の額縁から飛び出すしぐれういである。よって、
 作品 ― 作品
 イベント ― イベント

 という二つのメタ的な相関が仄めかされている。
 

1.画集『雨を綴る』

前回は今まで描いてきたものを全部集めて、女子高生だらけになったんですけれど(笑)、今回はより人と寄り添って作ったものが多く収録されたなと自分でも思ってます。

Pixivision 「VTuberしぐれういはひとつの作品」 イラストレーターしぐれういによる個展「雨を手繰る」解説ロングインタビュー



 イラストレーター・しぐれういによる二冊目となる画集。
 前作『雨に恋う』(2020年)と比べて商業イラストが多く掲載されている。前作とまったく印象の違う、非常に凝った表紙からはモノトーンな印象を受けるが、全体的にはカラフルでポップ。巻末にはメイキングとインタビューが収録されている。
 雨を想起させる四曲のオリジナルインスト楽曲が(配信、DL等で)章に合わせて添えられており、BGMとなっている。鑑賞を想定した一冊。
 二冊の画集を比較して分かるのは、彼女がVtuberに携わるようになってから画風が変化したこと。

 なんでしょう……わたし、一次創作だと地味めな女の子がすごく好きなんですけど。やっぱVtuberさんって、見た目的にもキャラクターを押し出している子たちが多いので。「その人のキャラクターを、いかに魅力的に見せるか」みたいなところを追求し続けた4年間になったなぁと。それを収録したのが、前の本との違いかなと思います。

Vtuberスタイル デビュー5周年記念単独インタビュー


 なんでもない少女が好きです。
 主人公というわけでもなく、平凡で、とりとめもない毎日を過ごしている。
 そんななんでもない少女と目を合わせたときに起こるドラマチックな一瞬が大好きです。
 (中略)
 わたしが恋をしてきた少女たちを紹介させてください。

『雨に恋う』序文


『雨に恋う』は2020年刊行(深掘りはしないがイラストレーター・しぐれういを知るなら必読の一冊である)。その時点で彼女は既にVtuberに携わり、なんなら本人も活動していたため、この時点でもVtuber作品が多く掲載されているが、画家として初のキャリアをまとめた一冊ということで、さらに過去のイラスト・同人等(まだ画風の固まりきっていないものさえある)の方が多く収録されている。
 この一冊で印象に残るのはやはり冒頭のオリジナル作品。序文のとおり"モブ"と呼ばれてしまいそうな女の子がたくさん描かれている。なかでも"MEGLOOP"は圧巻で、躍動する14人の少女が2ページを駆け抜けていく。初期の代表作と言っていいだろう。
 その四年後、プロイラストレーターとしてより多様な仕事に携わってきたあとの『雨を綴る』のオリジナルイラストの比重は比較的少なく、内容もカラフルなものが多い。
 前作を象徴してきた"平凡な女の子"は"SHIGURE GIRLS"と題されて描かれているのは連続性を感じさせるが、全面に出ているわけではなく、その後の鮮やかで多様な案件イラストの方が印象に残るかもしれない。特にVtuberは非常に虚構性の高いキャラクターデザインが多いため、必然的に紙面はポップになっていく。
 そこで感じること。"平凡な女の子"と正反対の外見に見える"Vtuber"、一見そこには断絶を感じさせるものがある。しぐれういの中で、いったいどこで、どのようにその二極は生まれ、変化していったのか?
 ……「その"断絶"に回答するものだった」というのが、僕の5周年施策に対する一つの解釈だ。
 しかしそれを語るには、個展に焦点を移す必要があるだろう。

 

2.個展『雨を手繰る』

「VTuberしぐれういは、イラストレーターしぐれういのひとつの作品だと言い切りたい」「でも、両方とも大事だから、どちらかに重きを置きたくない」と最初に相談しました。「それならVTuberとイラストレーター、ふたつをエリアとしてしっかり分けて、シンメトリーに同じ数だけ作品を並べましょう」と青木さんからご提案いただいて、それがしっくりきて。

Pixivision 「VTuberしぐれういはひとつの作品」 イラストレーターしぐれういによる個展「雨を手繰る」解説ロングインタビュー



 こちらも二度目の個展。会場は六本木ヒルズ。入場無料。一ヶ月ほどの開催となった。僕は二回鑑賞。二度目には整理券が必要なほど混雑していた。


 個展「雨を手繰る」ではひとつひとつのイラストではなく、全ての作品をひっくるめて、会場ひとつで「しぐれうい」を表現しています。
 イラストレーターしぐれういが作った世界、そしてその作品の中の一つであるVtuberしぐれういの世界をみなさんにお見せできれば幸いです。

開催のご挨拶



 入り口のキービジュアルを模した巨大しぐれういがインパクトを与える。
 会場のメイン空間は四角形の壁とその辺に隣接する円。壁と外周の円に画が展示されている。一つ一つの画は巨大で、普段これほどのサイズで観ることがないせいか、美術館の展示のような質量を感じた。
 円の内側にはモニターが設置され、時間経過で3Dのしぐれういが出没する。出てくるとちょっとしたお祭りになっていた。
 その中央には傘型の展示があり、角度を変えると変わる二枚の画が掛けられている。特に"I"は角度によりVtuberのしぐれういが黒髪ういに変化する、意味深な一枚である。

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 全体を俯瞰すると、中央から半分は"イラストレーターサイド"、もう半分は"Vtuberサイド"となっており、展示された画もテーマに則っている。また両側からは異なったBGMが流れており、傘の中央で二つの音楽が混ざり一つになるよう設計されている。
 例外的に、二つのサイドを辺の壁で結ぶのが、吊り下げられた"SHIGURE GIRLS"である。

SIGURE GIRLS


 こちらは5周年のために描き下ろされたと思われるが、そのような画は他にもあり、特に歌人の木下龍也とコラボした二枚のうちの一つ"モラトリアム"が個人的にお気に入りである。悲観的な短歌を含め、珍しくダークなイラストとなっており、『嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん』を好きな一冊に挙げる一面が垣間見える。

モラトリアム


 客層は幅広く、単にリスナーというよりは、創作やクリエイティブな行為に関心のある若者が多かったように見えた。

 この個展を考える上で参考になるのが会場の設計である。
 図録には詳細な図が書かれており、学生時代に設営などを行っていたという画家のスキルが活かされているのだろうか。
「開催のご挨拶」のとおり、この設計になんらかの意味があるのは確実である。

 僕の解釈は「会場の円形はしぐれういの脳内の反映であり、片方には叙情的なオリジナル、もう片方にはポップなVtuberの画が置かれているのは現在の画風を表し、その二つを"平凡な女の子"が繋いでいる」というものだ。
 画集で感じた断絶が、イラストレーターしぐれういの脳を模した会場によって非言語的に説明されている――というのが僕の見立てである。

(先回りした話になってしまうが、個展は作家・しぐれういがコントロールする脳の内側である。脳内ゆえにその中ではVtuberういと黒髪ういは等価であり、MVを除けば唯一、並存することができる)

前半まとめ


 しぐれういの作家性には、二極の断絶がある。
 画集と個展は、それに対して層2の脳内から水平な回答を与えるものだった。
 しかし、ここまでならば、黒髪ういというメタを導入する必要はさほどないことに注意しよう。
 一方、もう二つの作品――アルバムとライブ――も、違った形で同様の回答を与えることになる(そのために、黒髪ういが存在しなければならない)
 それは、垂直な回答である。

 長くなってきたので、アルバム&ライブ篇は次回に回します。果たして年明けまでに書けるのか……

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