セカンドライフと真骨頂

 こんばんは、竹森です。
 さっさと全部、なにもかも、隕石でも落ちてなくなっちゃえばいいのにね。

 以前書いた、この記事の続編のような話です。

はじめに

 30歳になって少し経つ。人生や生活に明らかな変化がある。今まで、30歳以降の人生を想定していなかったので、もう想定外だから、ぴえん…ということで、厭世的感性で投げやりに過ごしてきた結果、バランスが破綻したのだと言えば、簡単に説明はつく。でも実感としては、そんな年の数えの10進数的な区切りに紐づいたことだと納得しましょうというのも癪に障るところである。「重なり」である。良くも悪くも。たまたまこのタイミングで、思想と仕事の契機が重なったのだということを、ちゃんと考えておきたい。

当面の目標を達成したっぽい

 色々とコンパクトな目標で日々を誤魔化しながら、なんとか平静を保って狂わずに生活を送ってきた。その中でも最大級の長期的な目標的なこと、当初は要は「何者かになりたい」みたいなことであったものの集積。「起業とかなのか??でも経営に興味ないし、違うかぁ」「研究者か??でも論文書くの嫌いだしなんか違うかぁ」「大企業??でも製品作るの興味ないな、作るなら"作品"がいいなぁ」などと、自分の嗜好に偏りとこだわりがあることは把握していた。そういう色々を明確化した上で、自分が自分に求めるのは「何らかの自分特有の特技でもって、最強のクリエイターチームの中で、とっておきの活躍をして認められる」みたいなことであった。自分一人で作れるものというのは、予想の範疇に収まっており、できることをこなしてるだけで予想を超えない、おもしろみもないものである、みたいな判定が未来永劫に下ってしまっている。チームでの制作に興味がある。そこに引き寄せられて、入るべくして今のチームに入らせていただいた。

 自分個人にも"作品性""作家性"みたいなものがあるとすれば、それは「スマートさ」「最短距離」「簡潔」「洗練」みたいなところに表れる。それは芸術の道を歩んでこなかった自分が、アートだったり広告だったりエンタメだったりがアウトプットな場において、自分の武器となる軸である。問題解決の鮮やかさで見せるということ。そういう個性を活用するという正義。各自が生まれ持った気質をその向きのままに伸ばして磨いて得られる特異な領域を披露することは正義である。僕は個性を伸ばして、満を持してそれが尊重されるチームに所属し、2023年10月、29歳最後の夏から秋に、その大規模で本領発揮的なクリエーションにおいて、一定の役割を担って達成する。なるべきようになりつつ、たまたま幸運でもありつつ。明確に「ここは自分がやりました」と言える形で、一部を担わせていただいた。これは非常に、かなり特殊に、ラッキーである。こんな報われ方は、そうあることではない。

 もちろんそれは単発、一発目。安定して供給し続けたわけではない。デビュー戦での奮闘。新鮮味があり、当然張り切るもの。長年の下積みを伴った作家見習いとしてのもの、「洗練/熟成されきった」と語れるようなレベルではない。今はまだ"瞬き"である。しかし「一発かました」「ポテンシャルみせつけた」と言えるものだと思う。そうじゃないと言えば、謙遜する方が嘘で失礼である。やったもんはやった。
 もちろんまだまだ改善点や未熟な点はありはする(実際に2024年2月には、ある案件において思っていたようにはいかず、自分は実にまだまだな創作者だと思い知った)。そういう勉強のタイミングも、実に恵まれたタイミングで巡ってきたものだと思っている。もちろん、絶対に、失敗しない方が良かったのだが。それはもう、本当にうまくできなくてすみませんでした。でも糧にはできました。いずれこの分も何倍にもしてお返しします。

 そんな色々を踏まえつつ、成長著しく、失敗も糧となり、どうせこの感じで引き続き成長しながらやってけば、想定通りに育って戦力となり、結果に結びつくのでしょうね、というような、サプライズの無い感じ。ここから先はもう、その手応えをなぞっていくだけの仕事と生活であることが想像され、憂鬱になった。そんな想定の範疇だけの人生ならば、退屈である。

 そんなこんなで30代になった。20代のうちに死ぬものと漠然と思っていた身としては、想定してない延長戦である。そこに、退屈を苦痛に感じてまで過ごすほどの価値は感じない。いつでも終わりがよぎる。実際になってみて。これからもただ、こういう感じの諦念を、衰えてゆく心身で実感しながらなぞっていくのかと思うと、そこに何の幸せがあるのか。
 よく言うところの「燃え尽き症候群」みたいなものに陥る。傍から見て、これだけ社会的にはうまくいってそうでありつつ、これほど幸福じゃない感じのギャップ。夢を叶えてしまったのに。幸福感を得ることの難しさを幾度となく思い知らされる。幸福を感じとるためのセンサを凪にしてしまった人間がここにいる。平均的な家庭的にはないかもなだるさを食らってきたことも無視はできない。シンプルに、本気で子ども欲しくない、結婚も意味がわからん、という感覚も、普通にこの先の人生への期待のなさ、退屈さとかに直結してると思う。もうライフステージが上がらない。今が既に、余生である。

幸福感と目標

 当面の目標としていたものを、自分で夢想していた以上のクオリティと恵まれた環境で、夢みたいに達成できてしまった。でも夢見ていたほど夢見心地な世界でもない。達成感とは?? 新鮮な世界って。できすぎているほど享受しているようでいて。贅沢者。
 やれるだけのことをやった。色々好きに捧げた。その結果、それ相応の評価を得ただけ。当然の、相応のことが起きただけ。等価交換である。そこに驚きはない。冷静に起こるべきことが起こっただけだという感覚に陥る。目標に向けて突っ走ってる時は楽しいのだが、達成した途端に冷めてしまう。
 苦労して手に入れた1億円と、宝くじで当たった1億円、どちらが嬉しいか? 当然、圧倒的に後者である。相応に手にした1億円なら、相応なだけである。サプライズ感は無い。僕はサプライズ感が欲しい。相応なことなら、やってもやらなくても同じである。等価交換に喜びを感じられなくなっている。

偶然のパラメータ

 こういうのは、僕が人生の色々の中で築いてきた価値観のせいでもある。僕はいろいろと仕事的な「スペック」は高いかもしれないが、それに対して得ている"幸福感"はかなり薄いと思う。それはそういうもんなんだと思う。自分でも、そうでいて欲しい。僕がいろいろとスペックが高いように見映えするのは、たまたま今の世間においてスペック高く思ってもらいやすいパラメータが高く割り振られたという"運"によるだけで、そこに自分の手柄も幸福も偉さも何もないと思っている。ただ妥当なだけである。
 こういうことは、僕の普段のフラットで全面的な友人らへの奉仕的行動を知ってくれてる人には素直に伝わると思う(自分で言及するのは実にダサいが、自分と他人を特に区別しない方針なので、言及するのもフェアである)。そういう僕よりも、幸せを感じる能力にパラメータが割り振らている人の方が、よっぽど幸せなのかもと思う。僕は軽蔑していた兄をフラットに見れるようになったと同時に、頑張っていると思っていた自分の評価もフラットになり、やりがいを失った。なるべくようになっているだけである。

目標ドリブンの人生

 それはそれとして、自分のスキルに対するプライドだったり、自分ができることに対する自負はそれなりに強い。自分への肯定感は低いが、自分が成せることの市場価値はメタに高く見積もっている。それを実行する際、アドレナリン・ドーパミンがメインの刹那的な幸福を得ているのであろうが、その刹那を除けば主には満たされない時間ばかりである。夢中 or 退屈。そういう徒労感が、苦痛として積み重なる。これだけ色んなことを犠牲にして、いろんなものを捧げて、尋常じゃないことを成し遂げたとして、それでもこの程度の幸福感しか得られないのであれば、そんな目標を掲げたってどうにも幸せにはなれないじゃないか。

引用。

いろんなことを覚えて、鞭のように鋭い切れ者になったって、それでしあせになれなかったら、一体何の甲斐があるんだろ

J・D・サリンジャー『フラニーとゾーイー』

「あんたも奥さんをもらってくれたらいいのにねえ」藪から棒に、グラース夫人は、しみじみとそう言った。
(中略)
彼女は繰り返した「どうして結婚しないのかね」
(中略)
彼はそのハンケチをしまいながら言った「それはね、ぼくが汽車に乗るのが好きだからさ。結婚したらもう、窓際の席に座れないだろう」

J・D・サリンジャー『フラニーとゾーイー』

 僕は、それらしい目標を追いかけ続けたとして、その先で幸せになれるのだろうか?? 好きに窓際の席に座れる状態でいる方が、より遠くまで飛べるはずと思ってきたのだが。
 そういう検討をベースに色々考える。目標ドリブンの人生から足を洗わなくては、ずっと満たされないままの日々で、幸福には至れない説が濃厚に。何かを達成することを求める人生をやめて、日々に幸せを感じられる価値観と生活を構築することを考えないと。このままでは10年後、ふと人生を振り返ったとき、その痕跡にはただ砂漠だけがあり、何も、何も残ってないのではなかろうか。そういう虚無と不安にまみれた未来予想図と直面することとなった。
 そもそも荒みきった自分をいたわらない生活をしつづけてきた果て、年末ごろ、一度本格的に落ちる。ぴえん。

業でやってる

 落ちたところから、特段なにかが根本的に解決されたとかはない。引き続き自分の生活は危うくて、色んなことを誤魔化しながら、綱渡りしてると思う。でもその前後で明確な変化があったこととしては、「業でやってる」という事実を悟ったことである。世界観に変化あり。大事。
 本格的に落ちてみて、ぴえんしてみて、ムカついたことはいろいろある。そこには闘いがある。もう全部やめてしまおう、この道を降りてしまおうと思ってみた先の選択肢は、無限の退屈であった。「普通の企業」に属して、普通というか、ちょろい、甘くて楽そうな、いい待遇を頂いてワークライフバランスをそこそこに生活と趣味にいそしむとか??と想像してみるも、くだらねぇ。そんな俗世の原理を無視してアナーキーに自由気ままに過ごすべし。しかしながら、どうやら、そう都合よくいかない、自分はそんなには自由で器用で傲慢ではないらしい。それでもなお、なんだかんだで導かれるままに、ここまで来てこの水準でわざわざこれをやっている。神に設計されたがままに、ここでこういうことをやっている。これは業である。

終わりに

 そういうわけで、憧れのチームで活躍するという往年の夢も今や概ねとしては叶ってしまい、めでたくも、馬鹿にしていて想像すらしていなかった「30代」に突入し、心身ともに変化がある。決して「心身ともに健康」とは程遠い、荒んだ、「生活」がままなってないこの日々である。生きるからには、これも、なんとか、良くしたいと思っている。基本的には人生、誰しも、業に添い遂げるのが正義である。余生と感じるならば結構、セカンドライフを謳歌したい。