#7「過ぎ去らないもの」 アスリート自撮りドキュメント
頑張れば頑張るほど報われると信じていた。明日は今の延長線にあるはずだった。長い時間をかけて積み重ねてきた。土壇場の場面で、その積み重ねがものを言うと信じて。どれだけ今を捧げられたかで、明日の栄光が決まると信じて。
アスリートにカメラを渡し、その時の思いを自由に語ってもらった。
自問自答。アスリートは自らを写すカメラに問う
五輪はどうなるの? 私の競技人生はどうなるの?
答えのない問い。今はこの状況の中で頑張るしかない。 でも・・・。
空手の植草歩は自分の弱さと向き合った日々を語る。
1年の時が流れ、問いかけは深まっていた。
なぜ私は競技をしているのか? 何のために? その選択は正しかったの?
看護師とボクシングの両立の道を探ってきた津端ありさは歩んできた道を振り返る。
五輪って何? アスリートとは何か?
コロナ禍で誰よりも自分の存在意義を考えてきたフェンシングの三宅諒はひとつの結論にたどりつく。
どれもアスリートの話であり、私たちの話だ。コロナに色々なものを奪われた私たちが、それでも奪われていないものとは何かという話だ。
記憶とは過ぎ去ったもののことではない、と詩人・長田弘は書いた。
むしろ過ぎ去らなかったものことだと。
同じ言い方をすれば、私たちの「大切なもの」もそうかもしれない。
色々なものが奪われ失われても、それでも消えないものだけが大切なことだ。勝負の時の為に、地道な鍛錬を積み重ねるアスリート。 五輪が失われてもボクシングは続けると、津端は笑った。
明日の約束は破られるかもしれない。犠牲にしたものは戻ってこないかもしれない。倒産した会社の債権のように、すべてが幻に変わってしまうようも思える。それでも今を信じる。それがどこかにつながっていくことを。
「私のやってることは間違ってない。そう言い切れる」
自らの弱さと向き合い続けた植草が、そう語ったように。
「努力したこととか、練習してきた過程には、全く後悔はない」
夢を断たれた津端が、そう語ったように。