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#6 「僕らの自由を」ブレイキン半井重幸
かつて編集長を務めていた「スポーツ×ヒューマン」HPの為に書いた文章の過去ログです。半井さんはいつか続編を作りたいです。
「あの人は、自由だよね」
そんな言葉が決してポジティブな意味では使われない、今。
パリ五輪の新競技ブレイキンは「自由さ」を競う競技だと言う。それって厳密にルールを定めない言い訳じゃないの。なんかノリで決める感じのやつでしょ。そんな見方をする人はきっといるし、自分の中にもあった。
半井重幸のダンスを見るまでは。
「一目瞭然」という言葉が、ぴったりだった。
たとえばショーン・ホワイトの滑りが、スノーボードへの偏見を一瞬でぬぐい去ったように、そのダンスを見ればすぐにわかる。それが明らかにレベルの高いものであり、才能ある者が時間をかけて築き上げたものだということが。
トップロック、フットワーク、そしてパワームーブ。目まぐるしく繰り出される複雑な動き。回転が次の回転につながり、かと思えば突然のフリーズ。何が起きているのか、速度を落として再生してもよくわからない。しかしそれは「選択された動き」であり、その選択が正しい選択であり、その動きでなくてはいけないこと。
ジャズの即興演奏のように、どれほど無軌道のようでも、何かの法則や美学に則ったものであるということ。「突き詰められた自由さ」とでもいうようなものであることが、伝わってくる。
そして「自由さを競う」ことは可能なのだということも、半井のダンスは伝える。
自由は適当という意味じゃない。肉体と精神を極限まで突き詰めて表現するもの。
「楽しいことと、楽なことは、まるで違うんだ」
かつてそう語ったのは甲本ヒロト。半井の目指す自由への道も、決して楽では無い。
一日中練習して、ひとりきりで考えて、そして表現する「自由」。手のひらは足の裏のように硬くなった。首で全体重を支えての回転。体への負担は小さくない。
でも半井は語る。
「苦しいんですけど楽しいんですよね、苦しいことさえ楽しく感じてしまう」
「自分の人生はブレイキンに始まってブレイキンに終わるんじゃないかくらいの気持ち」
楽じゃ無い、だからこそ楽しい。迷いのない、冬の青空のようにクリアな表情。人生の全てを懸ける夢を見つけて、真っ直ぐに進む人だけが持つ瞳の力。7歳の時に初めてブレイキンに出会ったときも、きっとこんな風に笑ったんだろう。
半井は、本当に自由だ。
でも自由って何?そんな尾崎豊のような問いもわいてくる。
心はいつも何かにとらわれていて、自分を自由だとはちょっと言えない。不自由さの感覚はよく知っている。でも「不自由でない状態」が自由かと言われると、どうだろう。
言葉ではつかみきれない感覚を、ダンスは身体で表現する。もしかしたら、言葉より先にあったコミュニケーション。
半井のダンスに心が奪われるとき、重力から解き放たれたような自在な動きを見て、何かが伝わってくる。言葉では表現できないメッセージを受け取る。そして思い出す。
「僕らはこの感覚を知っている」忘れていたけれど。
ああ、そうだった。これが「自由」だったと。
半井は踊りを止めて取材者に聞く。
「どうです? やってみたくなりましたか?」。
無理だよ。という言葉と同時に、やってみたいなという気持ちもよぎる。
半井のように踊れたらと。でも、きっとそれが出発点だ。
THIS FILM SHOULD BE PLAYED LOUD
昔の音楽映画のような言葉を使いたくなる。近所迷惑にならない範囲で、できるだけ大きな音量で番組を見てほしい。
音楽とシンクロする半井のダンスで、きっと心は浮かび上がるはずだ。
ステップくらいは踏めるはず。僕らにだって。